おとなのための童話 | 雪女

雪女 1(トップの画像 web_DSC1994)

いつもいつも彼女の手はひどく冷たくて、かと思えば彼女の口の中だけはひどくあたたかくて、その癖彼女の吐く息はおそろしく冷たかった。

いつから彼女といるようになったのか記憶が定かではないのだが、気がついたら冬の夜、彼女が家に現れるようになっていた。毎晩ではない、週に一度か二度、それも何曜日とか何時とか決まっているわけではなく、不意に風が窓をこするような音がしたかと思うと、チャイムが鳴るのだ。この窓をこするような音というのは偶然なのかなんなのか僕にはわからないのだが、彼女が現れる前、チャイムが鳴る前にたいてい聞こえてくる不思議な音だ。たとえていうなら猫が全身の毛を逆立てながら磨りガラスにからだを擦り寄せているような音。そしてチャイムが鳴る。彼女が鳴らすチャイムの音は僕の心臓をいつも直に突き刺し、全身に響いていく。そして僕はドアを開ける。彼女がそこに立っている。ただ、立っている。マンションの共同廊下を見ても、もちろん彼女でなくても今歩いてきた人の残像がそこに残っているわけなどないのは百も承知なのだが、なんとなく人の気配がない。人の気配がないというよりも、不思議と、場が冷たい感じがする。一階のエントランスを通ってエレベーターに乗ってエレベーターを下りて数軒分の廊下を歩いて僕の部屋のドアの前に現れるというよりは、不意に僕の部屋のドアの前に現れて、チャイムを押している、そんな感じがいつもするのだ。

僕がドアを開けると、彼女はいつもかろやかに言う。「今晩は。」その声の調子がなぜかいつも懐かしくて、僕もこう返す。「よく来たね。」

何がよく来たね、なのか自分でもよくわからないのだが、初めて彼女がこんなふうに僕のもとを訪ねてきたとき、今晩は、と言われ鸚鵡返しに今晩は、と返すのは無粋である気がしたし、そこで咄嗟に出てきた言葉が「よく来たね」だったような気がする。

あの日は都心で木枯らし一号が吹きましたとかいう毎年冬になると一度だけ流れる恒例のニュースを会社帰りの電車のなかで見た、北風が強く吹く寒い日だった。そのニュースを見た、隣で吊り革につかまっていたカップルの女の子が、彼氏のほうになにやら子どもの頃聞かされた寒い季節の怖い話をしはじめ、聞きたくないのになぜか僕の耳がどんなに意識して別の音を拾おうとしても彼女の声だけを優先的に拾ってしまい、結局耳に入ってきてしまったのだった。

彼女は雪国の生まれで、幼い頃、木枯らしが吹きはじめた日より後、冷たい風が強く吹く日には外に出てはいけないよ、とおばあちゃんに強く言われていたそうだ。なぜなら、冷たい風にやがて雪が混じりはじめると、小さな子は、その雪に巻かれどこかへ連れていかれてしまうことがあるから、と。小さな子が外にひとりでいると、風に乗って山からおりてきた雪が、まるでダンスをしているかのようにその子の周りをくるくると回りはじめ、やがて小さな竜巻のようになったかと思うと何事もなかったかのように雪の竜巻のなかにいた筈のその子もろとも竜巻が消えてしまうのだそうだ。おばあちゃんが子どもの頃、隣の家の男の子がほんとにいなくなっちゃったんだって、と彼女がそれを本気で信じていそうな口調で言うので、僕は思わずふっと頬が緩んだ。だからこういう日ってわたし、ちょっとひとりでいるのが怖いんだ、という彼女に、彼氏が、きょうは俺が泊まっていってやるから大丈夫だよ、と蕩けそうな声で言って彼女の髪を撫でている様子が目の端から伝わってきた。

これは彼女の作戦なのか、それとも素で怖がっているのかを判断することはできなかったけれど、僕は不意に、昔、両親に連れられて田舎の民宿に泊まったときのことを思い出した。

僕自身はスキーなどたいして興味がなかったのだが、両親が大張り切りで僕にスキーを教えたがるので、仕方なく楽しそうな顔をして一日をやり過ごし、宿に戻り、田舎料理を食べ、他の宿泊客と地酒を酌み交わす両親の隣でぼんやりと窓の外を見ていた。最初はまるでダンスをしているようにふわりふわりと舞っていた雪が次第に強さを増し、やがて都会育ちの僕が少し怖じ気づいてしまうような吹雪に変わっていき、僕は、怖くてたまらない癖に、吹雪を近くで見てみたいという気持ちを抑えきれずにそっと立ち上がり、窓のほうに歩いていった。

窓の内側は幾分曇り、びっしょりと濡れていて、僕は窓に手を押しつけた。手を離すと僕の手形が窓に残り、水滴がいくつも尾を引いて垂れた。曇ったガラスの僕の手の形の向こう側に、雪が見えた。風がさっきよりも強くなり、雪が窓にぶつかってくる。民宿の薄い窓にぶつかった風と雪はどこか切なげな音をあげ、僕はその音が、誰かが遠くでなにか叫んでいるように聞こえて急に怖くなり、後ろを振り返った。父と母が本当にそこにいるか、確認したくなったのだ。

父と母は先ほどと変わらず、さっきここで会ったばかりの人達と、楽しげに酒を飲んでいる。

その父と母よりも手前に、ひとりの女の人がいた。両手を膝に当て、腰を屈めて僕を覗き込んでいる。

「いまの音が、怖くなったの?」

ここの旅館の人だろうか、それとも宿泊客のひとりだろうか。

顔はもうおぼろげにしか思い出せないのだけれど、子ども心におでこが綺麗だなと思ったことだけは妙に憶えている。

「あれはね、雪女が、消えてしまった愛しい男を探して泣いている声なのよ」

彼女はもう一歩僕に近づき、顔を僕に近づけると、僕の耳元で、僕だけに聞こえるように、こう言った。

「なぜ、言いつけを、守れなかったの?」

僕はぎょっとして彼女を見、次いで父と母のほうを振り返った。ふたりとも、少し離れたところでまだ楽しげに話に興じていて、父の手が母の腰に回っているのを見た僕はなぜかひどく一人ぼっちな気がして怖くなった。

何かが僕の髪に触れた気がして目線を戻すと、彼女の手がそっと僕の髪に触れ細長い指が僕の髪をもてあそんでいた。

彼女の指はとても冷たくて、だけれども、彼女の指の動きはまだ幼い僕にとっても不思議と抗えないほど心地よく、僕は動けなくなってしまった。

窓の外は一層風が強まり、風と雪がガラス窓をこする切なげな音は悲鳴に変わっていた。あたたかな部屋の中にいるはずなのに、僕だけがガラス一枚で隔てられた、真白な雪が荒れ狂う向こうの暗闇にいるような気分になった僕は、父と母のほうに走った。

そのあとのことはわからない。僕はずっと父と母の真ん中に座り、顔を上げないようにしていたからだ。

「眠くなったの?」

母が僕の髪を撫でた。あたたかな手だった。けれども僕の右耳の上辺りには、彼女の冷たい指の感触がいつまでも残っていた。

電車が大きく揺れ、しばし記憶の湖の中に深く沈み込んでいた僕は、現実の世界に帰ってきた。そろそろ最寄り駅だ。

記憶というのは不思議なもので、いま現実に肉体はここにあるのに、脳のなかでは過去に起こった別のフィルムが再生され、あたかも自分がそこにいるように過去を経験できる。それを僕らは日常的に頭のなかで自由に行っているわけだが、記憶の中に、自分が第三者として存在している記憶がある。それを経験しているのも僕だが、もうひとりの僕が少し離れたところから自分を眺めている、記憶だ。この子どもの頃の雪の日の記憶はその類で、彼女のひんやりとした指の感触、彼女が顔を近づけてきたときの不思議に冷たい吐息、心臓が縮み上がるような感覚、それらを僕はいままさにここで経験しているかのように頭の中で味わっている一方で、その自分を客観的に見ている幼い自分の目線も同時に、経験していた。さらに言うなら、実は僕は、今まで、この出来事を思い出したことはなかった。記憶の湖の底に沈めたまま、30年近くが、経っていた。

電車を降りると、いつものように前を歩く人と歩調を合わせ、目線を下に向けて歩きはじめた僕は、ふと10メートルほど前からホームの端をこちらに向かって歩いてくる背の高い女性に目が止まった。目の端に彼女が映ると、僕の目が、彼女に自然と焦点を合わせたのだ。僕以外にも彼女につい目が吸い寄せられてしまった男が何人もいるのに気がついた。それほど彼女の佇まいには夕方のラッシュ時の人ごみの中でも圧倒的な存在感があり、かといって彼女本人は、そんなことにはまるで興味がなさそうな、不思議な透明感のある人だった。なんというか、圧倒的な存在感と、だけれども現実のものではなさそうな、浮遊感。彼女の周りだけ時間が止まってしまったような。彼女に目が止まった瞬間、一瞬だが僕にも静寂が訪れた。全身を痺れさすような静寂。その静寂はすぐに、電車が到着しますという構内放送や足音、ざわめき、風の音に取って代わられてしまったけれど、なんというか、よく「一瞬が永遠である」みたいな言葉を目にするとそれを理解できない自分に嫌気がさすほどだったのが、その言葉の意味を瞬時に体が理解した感じがした。けれどもそれは本当に一瞬で、きっと僕が彼女を見ていたのはほんの1秒や2秒のことだったと思う。振り返りたくなる衝動をなんとか抑え、僕はまた前を歩く人と歩調を合わせ、うつむき加減で階段を昇りはじめた。

鍵穴に鍵を差し込む、という動作が僕は好きで、このマンションを選んだ。いまはホテルのようなカードキーや暗証番号で部屋を開けるマンションが増えてきているのだが、僕は、鍵が好きなのだ。すべての凹凸が滑らかに合致しすんなり鍵が入っていくこともあれば、向きを間違えたり角度が違ったりでなかなか上手に入らないこともある。だけれども最終的に鍵穴は僕の差し込んだ鍵を奥の奥まで受け取り、僕が左側にひねってやると、観念したように扉を開けてくれる。鍵穴の奥で鍵をひねったとき、少しの抵抗とともにするカチャンという小さな音も好きだ。

ドアを開けると、暗い廊下のライトがぽっと灯り、冬の始まりを告げる冷たい北風を真正面から浴びて冷えきった僕の体を頭から照らした。僕は、暑いより寒い方が好きだ。なぜなら、もし死ぬとしたら寒さで死んだ方が美しいと思うからだ。暑くて汗まみれになって苦しんで死ぬよりも、だんだんと血が凍り意識が遠のき眠るように死んでいくほうが死に方として美しいと、子どもの頃から思っている。子どもの頃、といってももう中学生くらいになっていたと思うが、これを母親に話したことがある。母はびっくりしたような顔で黙って聞いていたが、「あなたらしいわね」と言って笑った。

僕は、リビングのドアを開け、エアコンを入れようとリモコンを手にしたが、ふとエアコンはきょうはやめておこうという気になり、代わりにジョセフィーヌという名のコニャックを飲むことにした。パッケージとラベルに惹かれ、たいして酒も飲めないのについ買ってしまい、ときどき思い出しては飲むだけなので一向に減る気配がない。グラスをひとつ、取り出し、ジョセフィーヌの蓋を開けた。こんなとき、誰かが一緒にいてくれたらなと思う。僕は今まで、恋愛が長続きしたことがない。僕が本気になりかけたところで、いつでも別れを告げられるのだ。しかも皆口を揃えて、僕が浮気している、あるいは他に好きな女性がいるはずだ、と言う。冗談じゃない、僕が本気になり始めた頃に、なのだ。そんなことが何度か続き、恋愛というものが、いやむしろ女というものが面倒になってもう随分経つ。だけれど、時折、独りでいることを寂しく感じ、誰かにここにいて欲しいと思ったりするのだ。例えば珍しく酒が飲みたいと思い、グラスをカップボードから、ひとつだけ、取り出す時。電車で隣にいたカップルのことをふと思い出し、もう一度、彼女は本気で怖がっていたのかあれは彼女の作戦だったのかと考えはじめたとき、チャイムが鳴ったような気がした。気がした、というのも、僕は昔からいわゆる「空耳」が多いからだ。風の音を誰かの声と勘違いしたり、誰も何も言っていないのに返事をしてしまうなどしょっちゅうなのだ。だから僕は自分の耳で聞こえていることをあまり信用していない。そんなわけで今回もチャイムが鳴ったような気がしたが構わずグラスにコニャックの口を近づけると、もう一度、今度はさっきよりもはっきりと、チャイムが鳴った。今度は気のせいではなく、本当の音として聞こえた。

スコープを覗き込むと、僕が帰ってきたときに点灯した玄関前のライトが誰もいない空間をぼんやりオレンジ色に照らしているだけで、人の姿は見えない。やっぱりいつもの空耳だったかとリビングに戻りかけたところで、外を吹いている木枯らしが一層強さを増し、風にこすられたドアがかすかに音を立てた。子猫が、中に入れて欲しいとドアを引っ掻いているような切なげな音。

もう一度、スコープを覗くと、そこに彼女がいた。

僕はチェーンを外し、横向きの鍵をつまみ、ゆっくりと縦にした。少しの抵抗ののち、かちゃんと微かな音を立て、鍵は開いた。

ドアを押し開けると、そこに彼女が立っていた。

彼女は言った。「今晩は。」

さっき彼女を見ていたのはほんとうに1秒か2秒、ただすれ違っただけなので、彼女の顔の造作を見る余裕もなかった。ただ数秒間、ひたすら彼女の存在に目を奪われただけだった。

目の前にいる彼女は目線が僕より少し低いくらいで、やはり背の高い人だった。170センチはゆうに超えているだろう。横に大きく白目の多い目、尖った鼻、上唇が少しめくれあがったようなくちびる、北欧の人のように色味のない肌。全体的にモノトーンの印象なのに、唇だけは赤く艶やかだった。その赤は、赤というよりくれないというべき色で、そしてその唇は、不思議と少し笑っているように見えた。僕の目は、「今晩は。」と言ったきりわずかに開いたままの彼女の唇から、離れられなくなっていた。

僕は答えた。「よく来たね。」

冷たい風がまた、ドアにぶつかってすすり泣くような音を立ててはね返りまたどこかに向かっていく。そうだこの風は彼女の体にも容赦なく吹きつけているのだと思い出した僕は、ドアをもう少し大きく開いた。彼女がするりと家の中に入り、また強く吹きつけてきた風がドアを外側から押し、僕が閉めるまでもなくドアはひとりでに閉まった。背後から風に吹かれた彼女の髪がふわりと持ち上がって流れ、僕の頬をさらりと撫でた。その冷たくて柔らかな髪の感触で僕は一瞬何かを思い出したのだが、すぐにその記憶はうっすらと玉虫色がかった乳白色の靄の向こうに消えてしまった。思い出そうと思えば思い出せそうな、感覚のかたまりとしては憶えている記憶であるのに、思い出そうとすればするほどわからなくなってしまいそうだと判断した僕は、考えるのをやめ、彼女を見た。それにしても彼女の存在感は独特だった。空間から彼女だけが浮き上がっているような、そう、この世界には属していないかのような、そんな不思議な存在感だ。もしかしたら本当にこの世界に属していないのかもしれない、と僕はふと思った。いや或いは、本当にこの世界に属しているのは彼女で、属していないのは僕のほうなのかもしれないが。

僕は彼女にスリッパを出し、リビングに案内した。廊下の淡いオレンジ色のライトに照らされた彼女の額は、とても美しかった。

僕は彼女にソファに座るよう勧め、とりあえず飲み物を準備しようと、カップボードからもうひとつ、グラスを取り出した。独りで飲むのは寂しいと思っていたのはほんの数分前のことだ、けれど僕はいまもう一人分、グラスを取り出している。奇妙なことに、そのグラスを使うであろう相手は、さっき駅ですれ違っただけの、見知らぬ女性だ。僕は一体何をしているんだろうかと可笑しくなった。しかも、彼女はなぜ僕の家を訪ねてきたのか、そもそもなぜ僕の家がわかったのか、それもわからない。何か大事なことを忘れているような、抗いようのない力が働いているような気がふとして、僕は柄にもなく少し怖くなった。

「氷を、入れて欲しいの」

思わず声を出しそうになるのを辛うじて抑えて振り向くと、彼女がすぐそこにいた。僕は冷凍庫から大きめのクラッシュドアイスをふたつ取り出しそれぞれのグラスに入れると、もう一度蓋を開け、氷の上からコニャックを注いだ。

とくん、とくん、とくん、コニャックがふくよかな音を立て氷を少しずつ溶かしてゆく。

「わたし、この音が好き」

彼女は、コニャックを注ぐ僕の手とグラスに耳を近づけた。

「心臓の音を聴いているみたい」

彼女は、僕の手からジョセフィーヌの瓶を取り上げると、もうひとつのグラスのなかの氷山にゆっくりと液体を注いだ。その一連の彼女の言葉と動作が僕の脳の奥の奥にある何かを痺れさせた。先ほど感じた疑問などもうどうでもよくなり、一瞬足元から全身を駆け上がった恐怖もどこかへ消え失せてしまった。彼女は、自分がコニャックを注いだグラスを僕に手渡し、僕が注いだグラスを自分が手に取り、呟くように言った。

「再会に」

僕がグラスを彼女のグラスと合わせようとすると、彼女はグラスを持つ指を僕がグラスを持つ指に軽く当て、コニャックに口をつけた。氷がカランと音を立ててグラスの中で回り、彼女の上唇に当たった。くれないの色をしたくちびるの隙間から同じような、けれどくちびるよりも少し血の色に近い舌が顔を出し、氷を舐めた。その舌は次に彼女自身の上唇を舐め、コニャックで濡れたくちびるを彼女は今度は氷に押しつけた。僕はその一連の動作を、ただ惚けたように見つめていた。頭のなかのどこか冷静な部分が、いまの状況は異常だ、と僕に告げている。けれど残り98%の僕がそんなことはどうでもいいと主張し、ただ目の前の彼女だけを見るよう僕に指令を出す。僕は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。冷たい北風に冷えきったままなのか、彼女の頬はとても冷たかった。

彼女は僕の手が頬に触れていることなどおかまいなしに、氷におしつけていた唇を離すと、コニャックを一口飲み、目を閉じた。熱い液体が喉を通り、食道を浸食し、胃へと到達するのをじっくりと味わっているかのように、咲き始めた花びらのように少しめくれあがった彼女の両のくちびるが、わずかに開いている。僕は、彼女の頬から首筋へと手を滑らせた。首筋もやはり冷えきっていて、僕は、どんなふうにしたらこのからだが汗をかくのか、この冷えきったからだが上気し汗をかくのを見たい、自分の手で上気させ汗をかかせたい、そんな欲望に駆られた。

すると彼女は、まるで僕の心を読んだかのようにするりと僕の手から抜け出しこう言った。「あなたは、いつも、そう」

そう言うと彼女はグラスを置き、ふいっと僕に背を向け、滑るようにリビングを出て行った。あっけにとられた僕が後を追ったときには既に彼女の姿は家の中にはなかった。玄関のドアを開け共用廊下にも出てみたが、冷たい北風が勢いを増して廊下をすり抜けていっただけだった。

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奇妙な夜の訪問から数日が経ったが、僕の頭からは彼女の奇妙な言葉が離れようとはしなかった。あの夜、彼女が消えた後、僕はもしかしたらすべて夢だったのかもしれないと思ってリビングに戻ったが、まだ口をつけていないグラスと飲みかけのグラス、テーブルの上のふたつのグラスを見て、彼女の来訪が夢ではないことを知った。

あなたは、いつも、そう。

玄関のドアを開けると冬の暗い夜の空気が一気に部屋に押し入ってきた。彼女がそこに、立っていた。

「今晩は。」彼女は言った。

「よく来たね。」なぜかまた僕はそう言って微笑んだ。微笑もうと思ったわけでも「よく来たね」と言おうと思ったわけでもないのに、からだの奥底から突き上げてくる何かが僕にそうさせたのだった。

彼女は小雪混じりの風を連れ軽やかに僕の前を通り過ぎ、リビングへ続く短い廊下のちょうど真ん中あたりで立ち止まり、振り返ってこう言った。

「このあいだのつづきを」

僕はグラスをふたつとジョセフィーヌの瓶をテーブルに置き、氷を出そうと冷凍庫を開けた。が、生憎すぐに使えそうなサイズの氷がなく、あるのはどう考えてもグラスに入りそうもない大きな氷のかたまりだけだった。僕はボウルにその氷を入れると、戸棚からアイスピックを取り出し氷のかたまりを崩しはじめた。彼女がうっとりとしたような目で僕の手を見つめているのに気づき、ふと意識の焦点がずれたとき、振り下ろす場所が少しずれ、アイスピックが僕の左の人差し指をかすった。氷の上にぽたりと血が垂れ、僕は慌てて人差し指を口に含んだ。音もなく彼女の腕が伸びてきたかと思うと、細長い人差し指と親指が崩れた氷をつまみ、グラスに入れた。もちろん、血のついた氷も。そしてジョセフィーヌの蓋を開け、とくん、とくん、という音を味わうようにゆっくりと、グラスに飴色の液体を注いだ。血のついた氷の入っていないグラスを僕の右手に持たせ、自分は残りのグラスを持ち、グラスを持つ僕の指に自分の指を軽く当てると、彼女は、僕の血の入ったコニャックを喉に流し込んだ。こくん、と彼女の喉が鳴るのが聞こえ、僕はまた、血管がうっすらと青く見える程白い彼女の喉に目が吸い寄せられた。

「駄目よ」

彼女の、色味のない肌にそこだけ果物のように紅いくちびるが笑ったように見えた。

「あなたからなにかをしては、駄目」

そう言うと彼女は、コニャックをまた一口飲んだ。そして僕のくちびるに自分のくちびるを重ね、僕の血と彼女の唾液が混じったコニャックを、僕の口の中に流し込んだ。その琥珀色の液体は僕の唾液と交わり、さらに僕の体内深くに落ちていった。灼けるような甘い熱さが喉を通り、全身に広がっていく。彼女のくちびるが離れたかと思うとまたすぐに僕のくちびるに重なり、口の中にジョセフィーヌが流し込まれた。彼女の冷たい手が僕の髪に触れ、細長い指に僕の髪を絡めて弄びはじめた。そしてもう片方の手が、僕の頬に触れた。彼女の手は文字通り目が覚めるように冷たく、僕は思わず僕の手を重ねて暖めてあげようと手を動かしかけたが、

「さわらないで」

という彼女の言葉に金縛りにあったように動けなくなり、ただされるがまま、突っ立っていた。

彼女は何度もコニャックを口に含んではぼくの口に流し入れた。手の冷たさとは対照的に、彼女の口の中は強いアルコールのせいなのかやけに熱く、その癖なぜか彼女がくちびるを重ねるときにかかるかすかな吐息は氷のように冷たかった。彼女の細い指が一層深く僕の髪に潜り込み、冷たい指先が地肌を這うように撫で、冷たい指が這ったあとの地肌はしばらくのあいだ痺れたように指の通り道を残していた。

僕は、意識の半分は起きていたのだが、意識の半分で、夢を見ていた。

僕は、下から女性の顔を見上げている。彼女は僕を見ていない。窓の外を見て泣いているようだ。

僕は悲しくなった。僕がここにいるのに。なぜ彼女は僕を見ずに、窓の外を見て泣いているのだろう。

僕は彼女に呼びかけた。だが、声にならない。彼女が誰だかわからないのと、声をかけたくても、声にならないのだ。

彼女は、窓の外を見つめたまま「いつかまた」と呟いた。

僕は苛立って身じろぎした。すると彼女の大きな手が僕の小さな力ない肩をやさしくぽんぽんと叩いた。

僕は、母親らしき女性の腕に抱かれ、彼女の顔を下から見上げている、小さな赤ん坊だった。

彼女のことがこんなに愛おしいのに、彼女が誰なのかわからない。そして僕は、彼女の小さな赤ん坊でしかなかった。

どこか真っ暗な場所に僕はいた。

とくん、とくん、とくん、という音だけがきこえる。

まだ生きているのに間違って棺桶に入れられ地中に埋められてしまい、地下の棺桶の中で目を覚ましてしまったような気分だ。

僕がここにいて意識を持っていることを誰ひとりとして知らないのだ。

辺りは真っ暗で何も見えない。見えないというより、僕はおそらく目を開けてはいなかった。けれど目を開けるにはどうすればいいのかがわからない。からだを動かすにはどうすればいいのかもわからない。

絶望的な気分だった。

とくん、とくん、とくん、という音のさらに向こう側で、誰かがすすり泣いているような、音が聞こえた。

僕は彼女の下にいた。

頭上の月明かりが邪魔をして、彼女の顔は、よく見えない。色味を持たない白いからだがゆっくりと僕の上で動いている。

僕らは青い雪の上にいた。

そうだ、思い出した。

あの日、僕らは青い雪の上にいた。

知ってるかい? 降り続いた雪が真夜中にやみ星の見えない果てしなく黒い空に月足らずの満月だけが顔を出した夜には、まだ誰にも踏まれていない、降ったばかりの雪が、青白く光っていることを。

それを僕に教えてくれたのは彼女だった。そして、その雪を見に行きたいと言い出したのも、彼女だった。

数日前からこの村に降り続いている雪はやむ気配を見せず、僕らはここ数日、ずっと小さな家の中に閉じこもっていた。僕ら、というのは僕と彼女のことだ。それより前はこの家でおとうと暮らしていたのだが、気がついたらおとうではなく彼女と一緒に暮らすようになっていた。それがいつのことなのか、思い出そうとしても思い出せない。時折ふと、記憶の淵でなにかが蠢きそこに手が届きそうになることもあるのだが、意識して手を伸ばそうとすればするほど、それは乳白色の靄の向こうに隠れてしまう。

どこの村から来たのか、家族はいるのか、など、彼女のことは実は僕は何も知らなかった。ただ知っているのは、彼女は壮絶に美しいということだけだ。そして彼女のからだはまるで白い蛇のようだった。彼女の細長い手脚が僕のからだに絡みつくと、僕はこのままこの冷たくしっとりと吸いついてくるからだに絞め殺されてしまいたいという不思議な衝動に駆られるのだ。昼間はほとんど外に出ることがなく、彼女はただ日がな一日鏡に向かって良い匂いのする油をつけて髪を梳かしたり、くちびるに紅をさしたり、また僕が彼女に頼まれて山で探して採ってきた植物を煮たり、焼いたり、しぼったり、練ったりして薬や何やかやをつくっていた。彼女がつくったそれらを持って月に一度山向こうの大きな町で開かれる市に行くと、彼女がつくった薬や紅や色のついた粉は、飛ぶように売れた。痛みを止める丸薬を飲むと、どんなに酷い痛みもすぅっと引いていき、高熱に苦しむ子どもには、砂糖菓子に似せてつくった解熱剤がよく効いた。彼女がつくった紅をさすと、その女性のくちびるはまるで命を吹き返したようにいきいきと艶めき、頬に粉をのせると、まるで数時間も愛撫を重ねられ上気したような面持ちになり、目の縁に露草でつくった青紫色の粉をのせると、白目がより白く、黒目がより大きく潤み、見つめられると目を逸らせなくなるような蠱惑的な目になる、と女性たちの間で専らの評判で、最初は町の遊女たちのあいだで使われていたのがたちまち町中の女性を虜にしてしまい、僕が店を出す前から女性たちがそわそわと後をついてくるほどの人気ぶりだった。そして何よりもひっそりと売れていたのが、彼女がつくる、ある塗り薬だった。この薬を、男と交わるときに自分のからだや男のからだに塗ると、塗った部位がおそろしく敏感になるらしいのだ。彼女はこれを、効能書きをつけずにただ白い紙の包みに朱色の点をつけて僕に渡すので、僕もはじめはなんの薬なのか見当がつかずにいた。彼女に尋ねても、不敵な笑みを浮かべるばかりで教えてくれないのだ。

最初にこの薬を買っていったのは、その町の遊女のひとりだった。これはなんの薬か、と訊ねられ、ぼくは正直にわからないと答えたのだが、真っ白な紙に朱色の点だけをつけた包みに彼女は興味をそそられたようで、試しに買ってみる、と、紅や色粉とともにひと包み、買っていったのだ。

翌月、僕が山を越えて町にさしかかるや否や彼女が走り寄ってきて、このあいだの塗り薬が全部欲しい、と耳打ちしてきた。

「凄いのよ。お客さんにあれを塗ってやると、いつもと違うことをしているわけでもないのに、凄いの。自分に塗っても。アンタにこんなこと言うのもなんだけど、もう、男の指に触れられただけで、昇りつめてしまうほど」

それを塗られた客の男が店の外のあちこちでそれを吹聴し、置屋でも暇な時間が多くきせるばかり吹かしていたのが、一躍本人曰く「からだの乾く暇もないほど」一番の人気となったそうだ。

家に戻り、彼女にその話をすると、彼女はまた声を立てずにくちびるだけで笑った。僕は、僕にその薬を使ったことがあるか、と思い切って尋ねた。彼女は予想通り、ない、と答えた。なぜ使ったことがないのかわかったのかというと、僕は、彼女のなかで果ててはならないと彼女に言われ続けているからだ。そんな媚薬を塗り込んでしまったら、そんな我慢はできないに決まっている。だが僕はいつも、彼女の言いつけ通り、彼女のなかではなく彼女のからだの外で放出していた。なぜ駄目なのか、と訊いても彼女は答えてはくれなかった。

彼女は僕に、それまでの、おとうとふたり山でけものをしとめ、細々と米や野菜をつくっていた僕が知ることのなかった世界を教えてくれた。

彼女がゆらりと立ち上がり、僕にからだを擦り寄せてくるのがいつもの合図だ。それは昼夜を問わない。夜が明ける頃、気がつくと彼女がまだ眠っている僕の上に乗りからだを擦り付けていることもあれば、夕暮れどき、山から戻ったばかりで汗と土にまみれた僕のからだに白いからだを絡めてくることもある。さらりという微かな衣擦れの音に振り返ると、何ひとつ身につけず僕の背中にからだを擦り寄せてくることも、ある。そんなとき僕はからだの中心から涌き上がってくる熱いものを抑えることができず、彼女のからだを強く抱きしめるのだ。彼女は背が高く、いつでも超然とした目で前を見つめていたが、からだを擦り寄せてきた彼女を抱きしめると彼女のからだは急に小さくなったように、柔らかく、僕の腕のなかでいかようにも蠢いた。白い蛇のような彼女のからだは熱を持たず、僕がいくら彼女のからだを揺らし息を荒くさせようと、熱くなることはなかった。僕は、苦しげな表情の彼女の美しい額に汗の玉が浮かぶところが見たいと思った。そして、彼女の汗、彼女のからだから滲み出る液体をすべて飲み干したいと願ったが、けれども彼女のからだが汗で湿ることは決して、なかった。彼女のからだはいつもひやりとしていて、もちろん僕に触れる彼女の手も冷たかった。彼女の冷たい手で撫でられると、まるでからだの表面に彼女の冷たい指先でつまんだ氷のかけらを滑らされているような気がして、僕は気が遠くなりそうな快楽に溺れた。冷たい手で触れられた後にそこがあたたかな体内に飲み込まれると、僕は我を忘れてからだを強く彼女に打ちつけてしまう。そんなとき彼女は、よろこびに満ちた苦悶の表情を浮かべながらも、僕が抑制できなくなりそうだと見てとるといつもの超然としたまなざしに戻り、目線で僕に交わりの終了を告げ、からだを引いてしまうのだ。

その朝、いつものようにからだの上を這い回る彼女の指の動きで目が覚めた僕は、いつもにも増して、より一層彼女の指が冷たいのに気づいた。肌の上に氷を転がされているような感覚と、人肌でぬるまった布団の暖かさが妙に心地良く、彼女の指が這った場所だけが跡がついたようにいつまでも冷たかった。外側の冷たさとは真逆の熱い体内に飲み込まれた僕のからだの一部は、彼女の指の冷たさをいつまでもその表面に残しながら、熱くまとわりつく粘膜に擦られ、締めつけられ、そしていつものように、もうどうなってもいいから彼女の内側奥深くですべてを解き放ってしまいたいという欲望に駆られ、目の前で揺れている彼女のからだを強く引き寄せ、もうひとつの彼女の熱い場所、口の中に舌を差し込み、彼女がからだを動かせないよう、彼女の腰を強く掴んだ。

熱に浮かされたように潤みうっすらと涙すら浮かべていた半開きの目が、急に何かを思い出したようにいつもの超然としたまなざしに戻り、彼女はからだを動かすのをやめ、冷たい手が、腰を掴んでいる僕の手を払った。そして重なって蠢いていたからだを離すと、立ち上がり、着物の前をはだけたまま床の上を滑るように歩き、家の入り口の戸を開けた。

後ろ姿ではあったが、彼女の全身が喜んでいるのがわかった。なぜかはわからないが、何かいつもと違う、目には見えない透明な湯気のようなものが、彼女のからだから立ち昇っているように、僕には見えた。

気配を見せずただ静かに降り続き、家の外にある何もかもをすっかり白の色で覆い隠す雪は、不思議な透明感と圧倒的な存在感を持つ彼女の佇まいに似ていた。白の上にただ音もなくまた白が降りつもり、昨夜家の前につくった道はもう跡形もなく白の中に埋もれ、このままだと家から出ることも叶わなくなりそうだ。不意に風が吹きはじめ、風に乗った雪が僕らの住む小さな家の戸口から家の中に吹き込んで来た。彼女は着物の前をはだけたままだったので、ほぼ全身の素肌をその雪と風に晒しているはずだ。僕はそっと立ち上がり、彼女を驚かせないよう、戸を開けたまま雪を含んだ風を浴びている彼女に近づいた。

彼女は目を閉じ、いつでも少し笑っているような口をわずかに開け、雪と同じく白い乳房も、小さく抉れた形の良い臍も、僕のからだをとらえて離さない密かな場所もすべて白の世界に晒している。乳房の先端の、山桃のように丸く赤い部分が尖り、息遣いも、僕にからだを突かれているときのように荒かった。僕は体の底から涌き上がってくる欲望に抗うことができず、背後から、彼女の首筋にくちびるを当て、彼女の両脚のあいだに指を差し入れた。

彼女の細いからだがびくんと動き、弾けたように僕から離れた。

そして僕は、差しいれた指の感触から、彼女のからだは、僕と交わっているときよりも、今や強さを増し、降り積もった雪も同時に巻き上げながら彼女のからだに吹きつけている雪と風に全身を愛撫されているときのほうが数倍敏感に反応していたことを知り、激しく嫉妬した。何に嫉妬したのか、風と雪、という自然の力に嫉妬したのか、よくわからないが、今までに感じたことのない、怒り、悔しさ、屈辱のいずれでもない感情を感じていた。

気がつくと彼女は、いつの間にかはだけていた着物を直し、いつものように鏡の前に座って何事もなかったかのように長い黒髪に良い匂いのするあぶらをつけ、櫛で梳いていた。

「青い雪を、見たことはある?」

猟銃を磨いていた僕は、彼女の言葉に、ふと手の動きを止めて顔を上げた。朝からどのくらい時間が経ったのか、空を見上げても外の景色も一面真白なままで、僕は時間の感覚すら失いかけていた。初めて感じた嫉妬の感情をなんとか抑えるために、僕には、何か別に没頭できることをする必要があった。

彼女は、鼻を近づけると甘い果物のような香りのする艶やかな髪を白い紐で結い、くちびるにくれない色を、頬に桃色を、目尻に深い青をのせ、いつものように白いうつわに何種類もの草や花や木の皮や木の実を煮たものを入れ、薬を練っていた。

「雪は白いものだろう?」

僕の返答に、彼女はふふふ、とまた声を立てずに笑った。

「いつもはそう。だけど、ときどき、青くなるの」

彼女の話によると、ある条件がそろったときに、雪は白ではなく青白く光るそうなのだ。

けれども、それは稀にしか起こらず、一生に一度見ることができればそれは幸運であろう、と。そして今夜は、もしかしたら、見ることができる夜になるかもしれない、と。彼女はまるで唄うような調子で続けた。

三日三晩降り続いた雪がやみ、星のない漆黒の空に満月に少し満たない月が顔を出した夜、まだ誰にも踏まれていない、降ったばかりの雪は、内側から青白い光を放つのだという。

「わたしはそれをこの目で見たい」

彼女の、いつもの氷のように冷たくも見える超然とした目ではなく、熱に潤んだような目が、真直ぐ僕を見て、そう言った。

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雪女 3(トップの画像 web_DSF4008-Edit)

彼女はたいてい一日に何度か、ふと思い出したようにそのとき何かしていた手、それは薬を煮込んだ鍋を右に数回、左に数回、と規則正しくかき混ぜる手だったり、細い筆の穂先を舌で濡らし、僕が市で彼女のために買ってきた螺鈿の小箱の中に入れた紅を濡れた筆の穂先で撫でそれをくちびるに何度も何度も当て時間をかけて紅を塗っている最中の手だったりするのだが、その手を不意に止め、僕に体を擦り寄せてくる。僕が縄を編んでいようが食事をつくっていようが、翌日の猟のため銃に鉛の弾を込めていようが、そんなことには彼女は興味がなく、自分がふと思い立ったときに、僕と交わろうとするのだ。僕はそれを何とはなしに気に食わないと思うことがあり、そんなときには、先ほど戸口に立って雪と風に前半分の裸身を晒していた彼女に黙って手を触れたように、自分から、何かしている彼女の肌に手を伸ばすことがたびたびあった。けれども彼女はそんなとき、僕がいくら彼女のからだを丹念に、時間をたっぷりかけ、全身汗まみれになって愛しても、決してからだを開いてはくれなかった。

その日、彼女が僕にからだを擦り寄せてくることはなかった。ただ時折ふわりと立ち上がり、滑るように床を歩き、戸口に立って外を見ては溜め息をついて戻って来るのだった。そういえば、僕が歩いたり彼女のからだを強く突いたりすると軋んだ音を立てる床は、彼女が歩いても音を立てないことにいま初めて気がついた。

僕はそれから何度か外に出て、雪まみれになりながら家の周りの雪を片付け、寒さをしのぐために火を焚き、彼女のつくる薬や紅や色粉で得た金と交換してきた、とろりとした強い酒を飲んだ。いつの間にか僕はうつらうつらして、夢を見ていた。彼女がどこかに行ってしまう夢だ。もっと正確に言うと、白い花が雪のように舞い散るなか彼女が男と手を繋ぎ消えていく夢。夢の中で僕は、彼女は、その男には彼女の中で果てることを許しているのだと思っていた。花吹雪の向こうに消えてゆく直前、男と彼女が振り向きかけたその瞬間、僕は、僕の髪を撫でる冷たい指に、まどろみの世界から現実の世界へと連れ戻された。目を開けると、きれいに紅をさした彼女の、上唇が少しめくれ上がったくちびるが目に飛び込んで来た。次いで、彼女の色の薄い、琥珀色の瞳が僕の目を覗き込んだ。髪の表面に触れただけでその冷たさがわかるほど冷たい彼女の指が僕の髪のなかに潜り込み、僕の地肌を這うように撫でた。撫でられた地肌からじわじわと心地よい痺れが脳を通り首筋を通り全身に広がっていく。思わずまた目を閉じようとした僕に、彼女は言った。

「雪を見に、行きましょう」

戸を開けると、最後に雪の片付けをしてからまたひとしきり降ったようで家の中に雪が少しなだれ込んで来たが、もうすっかり雪はやんでいるようだ。腰の高さほども降り積もった雪と灰色の暗い針葉樹の森、その上に広がる、星明かりも月明かりもない果てしなく黒い空。いつもの見慣れた世界のすがたはそこにはなかった。彼女は僕が彼女のためにつくった、内側に毛皮を張り、雪が染みないよう外側に何回もけものの脂を塗って仕上げた長い靴を履き、外に出た。僕もあとに続いたが、ふと思いついて一旦家の中に戻ってから、彼女の後を追った。あたりはしんとして、時折針葉樹の上のほうから落ちてくる雪が積もった雪の上に落ちる微かな音以外、何の音も聞こえなかった。彼女は、行き先をわかっているような足取りで森の奥へとやはり滑るように、歩いていった。やがて目が夜の色に慣れた頃、彼女がふと立ち止まり空を見上げたので、僕もつられて上へと目をやった。何本もの針葉樹が漆黒をつんざくように上へ上へと伸び、その先に、ぼんやりと白い光が見えた。

月だ。月を覆っていた黒い靄のような雲が少しずつ風に流され、月が顔を出したのだ。はじめはぼんやりと、しかしやがてはっきりと姿を現しはじめた月は、一見満月のようだったが、よく目を凝らしてみると、ほんのわずか真ん丸ではないようだった。

降り続いた雪がやみ、星のない漆黒の空に満月に少し満たない月が顔を出した夜、まだ誰にも踏まれていない、降ったばかりの雪は、青白く光を放つーーー

昼間に彼女が唄うような不思議な調子で言った言葉が甦り、僕は彼女を見た。

彼女はもう、空を見上げてはいなかった。

このあたりは確か冬になると寒椿が咲いている辺りだったと思うが、あの紅い花びらもいまは雪の下に埋もれてしまっているのだろう。そしてその、彼女のくちびるのように紅い寒椿を覆い隠しているであろう雪が、青く光っていた。

青い、といってもここから遠く離れた海の青や、空の青や、彼女が露草をつぶしてつくる粉のような青ではない。降り積もった雪が、その内側奥深くから青白い光を放っている。例えていうなら、彼女が紅をしまってある螺鈿の箱の乳白色に輝く部分のような、いつだったか市で彼女への土産に買ってきた貝殻の内側のような、そんな光を湛えた薄い青に、雪それ自体が、光っているのだ。

彼女は青白く光る雪を、ただ見つめていた。

青白く発光する雪と、灰色の針葉樹林、わずかに欠けた満月と漆黒の空。

そのなかに佇む彼女は、あまりにも美しく、儚く、僕の目には、彼女のからだの周りも、雪と同じ青白い色の光が取り巻いているように見えた。

僕は彼女の首筋に手を伸ばし、白いうなじに口づけた。振り返った彼女のくちびるにくちびるを重ね、細く滑らかな曲線を描いて反り返った腰に手を這わせた。彼女のからだはやはりいつものように、おそらく降り積もった雪と同じくらい冷たく、にもかかわらず、彼女の口の中だけは熱く湿り、僕の差しいれた舌を包み込んだ。僕は彼女をそっと、青白く光る雪の上に横たえた。

僕が吸いついたために彼女が時間をかけて丁寧にくちびるに塗った紅がくちびるからはみ出し、やけに毒々しく紅く、まるで血を流しているように見えた。青白く光る雪と背後の暗い空と森、そのなかに、くちびるのくれないと、はだけた着物から覗く彼女の乳房の蕾、そして着物に描かれた赤い花びらだけが、妙に鮮やかに浮かび上がっている。

雪の下に隠れた寒椿の木が、青白く光る雪の上で戯れる彼女と僕の寝台となった。

彼女のからだは雪の上にあってもその冷たさに変化はなかった。僕も不思議と、全身に纏わりつく雪の冷たさを不快と感じることはなかった。むしろ、目の前の彼女だけでなく彼女のかけらたちが僕の全身に纏わりついているようで、愛おしさすら憶えていた。

僕は、彼女が腰の辺りで髪を結っている白い紐をほどき、長い黒髪を青白い雪の上に広げてみた。青白い雪の上で彼女の色味のない顔とからだはほとんど雪と同じ色のように見え、まるで血を流しているようにくちびるからはみ出した真赤な紅の色とも相俟って、不意に僕は、言い知れぬ不安が、青白い雪の上に広がる彼女の黒髪のように、心に広がっていくのを感じた。このまま彼女が消えてしまうのではないかという気が、してきたのだ。その不安の奥から僕の心に浮かび上がってきたのは、先ほどのうたた寝で見た夢の光景だった。白い花が雪のように舞い散るなか、彼女が、男と手を繋ぎ消えていく夢。

僕は、怒りにも悲しみにも似た嫉妬の感情が、自分の全身を支配していくのを感じた。

彼女は目を閉じ、口をわずかに開いて、青白い雪の上に横たわっている。彼女が身じろぎしたときに顔を出したのか、雪の上に乱れ広がる黒髪の隙間に寒椿のくれないの花びらが僅かに覗き、そのくれないの色が、彼女のくちびるから零れ落ちた血のようで、僕は慌てて、もともと冷たいのだからいまも冷たいに違いないことはわかっているにも関わらず、彼女の頬に手を触れた。

ぞっとするほど冷たい彼女の頬は、だが柔らかく、すべすべしていて、僕はいまだ目を閉じたままの彼女に覆い被さり、着物の裾を割って彼女の中に侵入し、彼女の氷のようなからだを自分のからだの熱さで少しでも溶かそうと、無駄だとわかっていても、自分のからだで彼女のからだを揺らさずにはいられなかった。

彼女はまだ目を閉じたままだ。

僕は、懐から小さな紙包みを取り出した。

表に朱色の点だけがついている。

音を立てないように包みを開くと、中には緑色の軟膏が少し、入っていた。苔のような深い緑に、ところどころ点々と赤や黄、青、銀などの色がわずかに混じっている。

僕はその軟膏を指に取り、彼女の脚の間を愛撫するふりをして彼女の秘められた部分に塗りつけ、彼女の中に押し入っている僕のからだの一部にも塗り込んだ。紙包みにほんのわずか残った軟膏をすべて指に取り、彼女の桃色の蕾をつまむようにして、塗った。

ずっと閉じられていた彼女の瞼が開き、いつもの彼女の超然とした目が僕の目を射抜いた。いつもならばここで彼女はすっとからだを引いてしまうので、僕は反射的に彼女の腰を掴もうとしたが、彼女は、からだを引こうとはしなかった。それどころかからだをさらに僕に押しつけ、手脚を僕のからだに強く絡みつけ、繋がったまま、僕のからだを雪の上に倒した。

彼女が僕の上になり、僕は彼女の顔を下から見上げていた。

彼女の瞳は変わらず氷のようだったが、そんな彼女の意思とは別にからだが僕から離れようとしないように見えた。彼女と僕はこれまでになく深く繋がり、僕はもう、背後の雪の冷たさなど何も感じなくなっていた。ただこの世界にいるのは僕と彼女だけであるかのように感じ、彼女と繋がっている部分から全身に、さざなみのように、とどまることなく押し寄せてくる、熱い魂の震えのような感覚にただもうこのまま身を任せ、彼女とひとつに溶け合ってしまいたいと思った。

彼女はゆっくり、ゆっくりと僕に沈み込んでくる。満月にほんの少し足りない月が針葉樹林の森の隙間に顔をのぞかせ、青白い雪の上で交わる僕と彼女を照らした。降り積もった青白い雪の上で蠢く、雪と同じように色味のない彼女のからだが、不意に姿を見せた、黒い空で冴え冴えと輝く月足らずの満月の光に背後から照らされている様子は、禍々しいほどに神々しく美しく、全身に広がり続けていたさざなみが大きな波に変わりはじめた。

あの男には中で果てるのを許しているのだから、僕だっていいはずだ。

僕の頭のなかには、うたた寝の夢で見た彼女と男の後ろ姿が渦巻いていた。

彼女が、かすれた声で何か言っている。意思に反して僕のからだを咥え込んだまま離さない自分のからだを呪っているように、かすれた声で何か言いながら、必死で僕の動きに抗おうとしている。

だが僕は、やめなかった。

このまま氷のように冷たく美しい彼女のからだの中の熱く湿って僕を包み込み締めつけて離さない場所に、飲み込まれてしまいたかった。

彼女を、僕だけのものにしたかった。

さざなみが大きな波に変わり、いまやその波は荒れ狂ううねりとなりーーー

僕は、彼女の中に、すべてを迸らせた。

その瞬間、僕は何かが、いや僕を取り巻く空気が、いつもとは違うことに気がついた。

目を開けると、目の前の空間が渦を巻いたように歪んでいる。

そういえば僕は、この光景をいつか見たことがある。

そうだ、あれはまだおとうとあの家に住んでいたときのことだ。

寒い冬の日の夜、おとうと並んで寝ていた僕が何かの気配に気づいて薄目を開けると、おとうの上に、ひとりの女がゆらりと立っていた。

女は音もなくおとうの布団に滑り込み、目を覚まして声を出そうとするおとうのくちびるをくちびるで塞いだ。

僕はおそろしくて寝返りを打つふりをして布団に潜り込んだ。けれど、女の冷たい目が布団の上からじっと僕を見ているような気がして、その冷たいおそろしさにからだの震えが止まらなかった。

どのくらいの時間が経ったのか、隣で行われている行為から漏れる湿った音とひそやかな溜め息がやんだ。布団の隙間からそっと隣を見ると、おとうと女のいる筈の暗い空間が、ねじれたように歪んで見えた。衣擦れの音がし、女が立ち上がる気配がしたので、僕は慌ててまた寝たふりをした。

女が、布団の上から僕を撫でた。布団を通して氷のような女の手の冷たさが伝わってきた。布団からそっと顔を出すと、おとうの姿も、女の姿も、消えていた。

その女とは彼女であったことに気づいたときには、目の前の空間のねじれた渦の中に巻き込まれていくように、僕は、彼女のからだと繋がった部分から、文字通り、彼女の中に取り込まれていった。目の前の渦の中に、白い花吹雪の中を彼女が男と手を繋ぎ消えていく夢の中の光景が甦り、その男と彼女が振り返った。その男は、僕だった。振り返った彼女の顔と、僕が最後に目にした、僕を見下ろす、瞼の上にうっすらとのせた青い粉が水気を含んでまるで青い涙を流しているように見える彼女の顔が重なり、その遠く向こうに、黒い空に浮かぶ月足らずの満月が見えた。

どこか真っ暗な場所に、僕はいた。

とくん、とくん、とくん、という音だけがきこえる。

まだ生きているのに間違って棺桶に入れられ地中に埋められてしまい、地下の棺桶の中で目を覚ましてしまったような気分だ。

僕がここにいて意識を持っていることを誰ひとりとして知らないのだ。

辺りは真っ暗で何も見えない。見えないというより、僕はおそらく目を開けてはいなかった。けれど目を開けるにはどうすればいいのかがわからない。からだを動かすにはどうすればいいのかもわからない。

絶望的な気分だった。

とくん、とくん、とくん、という音のさらに向こう側で、誰かがすすり泣いているような、音が聞こえた。 

僕は、下から女性の顔を見上げている。彼女は僕を見ていない。窓の外を見て泣いているようだ。

僕は悲しくなった。僕がここにいるのに。なぜ彼女は僕を見ずに、窓の外を見て泣いているのだろう。

僕は彼女に呼びかけた。だが、声にならない。彼女が誰だかわからないのと、声をかけたくても、声にならないのだ。

彼女は、窓の外を見つめたまま「いつかまた」と呟いた。

僕は苛立って身じろぎした。すると彼女の大きな手が僕の小さな力ない肩をやさしくぽんぽんと叩いた。

僕は、母親らしき女性の腕に抱かれ、彼女の顔を下から見上げている、小さな赤ん坊だった。

彼女のことがこんなに愛おしいのに、彼女が誰なのかわからない。そして僕は、彼女の小さな赤ん坊でしかなかった。

甘く濃厚なアルコールの匂いが鼻孔をくすぐったかと思うと口の中に何か液体が流し込まれ、次いで柔らかな舌が差し込まれ、僕は我に返った。

彼女が、琥珀色の液体の入ったグラスを手に僕の目の前に立っている。

「夢を……見ていたのかな」

さっきまで彼女と交わっていた背中の青白い雪の感触も、彼女の熱い体内の感覚も、きんと冷えてしんと静かな夜の匂いも、彼女のくちびるからはみ出した紅と寒椿のくれないの色も、すべてがまだ、からだに残っているような気がした。

「夢ではないわ。あなたの細胞が、思い出しただけ。」

僕の心を読むように彼女が言った。

「男の欲望が、わたしには必要なの。

わたしがわたしであり続けるために。

男を自分のなかに取り込むたびに、わたしは一層輝きを増す。

けれどわたしは、あなたを取り込んでしまいたくはなかった。

あなたのことを、愛しく思っていたから。

あなたを失いたくなかったから。

あなたはわたしの言いつけを守れなかった、愛しくて、悪い子」

彼女は唄うようにそう言うと、グラスの中のジョセフィーヌを口に含み、ごくりと飲み込んだ。

「わたしはあなたがわたしの目の前から消えてしまったことを嘆き、あなたがわたしのなかで生まれ変わりもう一度人となることを願った。

途方もない時間が流れ、あなたはわたしから生まれ出た。

あなたは、あなたと交わったわたしから生まれたの。

あなたが小さな頃、一度会いに行ったのを憶えている?」

僕はどこかでそのことがわかっていた。あの幼い冬の日、スキー場の民宿で出会ったあの女性が、目の前の彼女であること、そしてその彼女のことを、僕はずっと昔から知っていたことを。

彼女は、僕と交わって孕んだ(孕んだ、という言い方は正確ではないが)僕を産み、僕の両親に託したのだ。

「いつかまた」という魔法を自分と僕にかけて。

彼女は、空になったグラスにまた、ジョセフィーヌを注いだ。

とくん、とくん、とくん、という音を愉しむように目を細め、いつも笑っているようなくちびるが、本当に微笑んでいた。

「心臓の音」

彼女はそう言って、僕の胸に耳を押し当ててからそこに自分の胸を押し当てた。

「ほら、血が共鳴している」

全身の細胞がざわざわとざわめきはじめたように感じた。

「細胞は永遠に憶えているから。もう、忘れて」

僕の耳にそう言葉を注ぎ込むと、彼女は、グラスに注いだジョセフィーヌを全部口に含み、一気に僕の口の中に流し込んだ。

むせかえった僕は、自分の口の周りはおろか彼女の口元から胸元にかけてをコニャックまみれにしてしまった。

すると彼女は、僕の顔を両手で挟むと、口の周りに零れたコニャックを舌先で舐めはじめた。コニャックの芳醇な甘い香り、彼女の氷のように冷たい手と熱い舌先、そして不思議に冷たい吐息に僕はまた目を閉じ、皮膚を通して僕のからだの芯を震わす感覚に沈み込んだ。やがて彼女の舌先が離れると、僕は、彼女が僕にそうしたように、彼女の冷たい顔を両手で挟み、彼女の口の周りから胸元に零れたコニャックを舐め尽くした。彼女の芯が甘く蕩け、僕は、そこにも琥珀色の液体を垂らし、さらに甘くして飲み干した。

寒さにからだが震えて目が覚めると、僕はリビングのソファにいた。彼女はもう、いなかった。

ジョセフィーヌの空のボトルがソファの横の床に転がり、テーブルの上のグラスの底のほうに、ほんの少し琥珀色が、残っていた。

ぶるっと全身が寒さに震え、僕は熱いシャワーを浴びてからベッドに潜り込んだ。窓に吹きつけてくる北風の音が、少しやさしくなったように思いながら、僕はもう一度眠りについた。

いつから彼女といるようになったのか記憶が定かではないのだが、気がついたら冬の夜、彼女が家に現れるようになっていた。毎晩ではない、週に一度か二度、それも何曜日とか何時とか決まっているわけではなく、不意に風が窓をこするような音がしたかと思うと、チャイムが鳴るのだ。この窓をこするような音というのは偶然なのかなんなのか僕にはわからないのだが、彼女が現れる前、チャイムが鳴る前にたいてい聞こえてくる不思議な音だ。たとえていうなら猫が全身の毛を逆立てながら磨りガラスにからだを擦り寄せているような音。そしてチャイムが鳴る。彼女が鳴らすチャイムの音は僕の心臓をいつも直に突き刺し、全身に響いていく。そして僕はドアを開ける。彼女がそこに立っている。ただ、立っている。マンションの共同廊下を見ても、もちろん彼女でなくても今歩いてきた人の残像がそこに残っているわけなどないのは百も承知なのだが、なんとなく人の気配がない。人の気配がないというよりも、不思議と、場が冷たい感じがする。一階のエントランスを通ってエレベーターに乗ってエレベーターを下りて数軒分の廊下を歩いて僕の部屋のドアの前に現れるというよりは、不意に僕の部屋のドアの前に現れて、チャイムを押している、そんな感じがいつもするのだ。

僕がドアを開けると、彼女はいつもかろやかに言う。「今晩は。」その声の調子がなぜかいつも懐かしくて、僕もこう返す。「よく来たね。」 

彼女は誰なのだろう。

思い出せそうな気もするのだけれど、その記憶の手がかりは、手を伸ばすと青白い靄の向こうに隠れてしまう。

外はまた今夜も、雪混じりの風が強く吹きはじめた。