中編

実際人魚の上半身は、物心ついてから来る日も来る日も海に潜り、船を操ってきた彼のからだはもちろんのこと、彼が抱いたことのある街のどんな女に比べても、ひどく華奢で、そのくせ乳房は、細いからだに似合わず、あの、夏になると森の奥で甘い香りを放ち彼の心をそそる果物のようでした。人魚の薄い唇に何度も口づけながら、森の奥深く、ある一角でしか穫れないというその果実を食べに父親と森に入った日のことを、彼は思い出していました。

この果物はな、女神の乳房って呼ばれてるんだ。夏の今時期にしか穫れないし、この場所でしか穫れない。誰でも食べられるって訳じゃないんだ。

彼は、幼い彼に父親が言った言葉を心の中で反芻し、なんだか合点がいったような気がしました。

そういわれてみると、彼がこの果物を穫りに森の奥に分け入ったとき、誰か他の人と出会ったことは一度もありませんでした。意図的に秘密にしていた訳ではありませんでしたが、誰かにこの果物のことを話したこともありませんでした。そんな話をするような友人も、彼にはいなかったというだけのことですが。

白い楕円形の果実にナイフで切れ目をつけ一気に割ると、中から果汁が溢れ出てきて、まずはそのジュースで喉を潤してからみずみずしいルビー色の果実に齧りつくのです。

人魚にあの果物を食べさせてやりたい、と、彼は不意に思いました。彼は人魚の唇から離れると、思わず彼女の、彼の大きな手にもとても収まりそうにないほどの乳房に目線がいってしまい、慌てて目を逸らしました。まるで夜空に浮かぶ三日月のような弧を描いて閉じられていた彼女の瞼がゆっくりと開き、彼は、先ほどの自分の不埒な目線を人魚に見られなかったことを知ってほっとしました。

「きみに、食べさせてやりたいものがあるんだ。」

彼は、人魚が聞き取りやすいようにと、ひとことひとこと、ゆっくりと大きく口を開けて喋りました。

人魚は首を傾げ、彼の口元をじっと見つめながら彼の言葉を聞いていました。夜半の月の青白い光に照らされ、人魚の白いからだはいよいよ白く、真珠のように、果てしなく続く背後の夜に浮かび上がって見えました。

あぁ、そうか

彼がそう思うのと、人魚が目を伏せるのが同時でした。彼女が目を伏せると、長い睫毛が目の下に陰をつくりました。

人魚は、人魚なのです。下半身は銀色の鱗を持つ魚のそれなのです。村人でも行くことの滅多にないような森の奥に、脚のない人魚がどうして行くことができましょうか。彼の心は、人魚を困らせてしまったことへの申し訳なさと、考えの至らなかった自分の不甲斐なさを悔しく思う気持ちでいっぱいになりました。いや、まてよ、背負っていけば行けないことはないかもしれない。けれど、背負っていくのであれば暗いうちでないと、誰かに見られてしまう。人魚の身が危険にさらされるようなことは絶対に避けなければ。おそらくはきっと数秒の間に、若者の頭のなかをさまざまな考えがひらめいては消えて行きます。

人魚は目を上げ、なんとか次の言葉を探そうとしている若者を見つめました。

あの海の色。幼いとき、父親から、母親から、この海を見て暮らしていたすべての大人たちから何度となく聞かされ続けてきた、あの薄い青い、海の色。海がこの薄い青に染まったなら、決して海に出てはならない色。彼女の瞳の中には、その海が広がっていました。

頬に雨が当たったような気がして、若者はふと人魚の瞳のなかの海から目をそらし、水面をみやりました。水面はやはり静かで、ふたりの乗った小さな船が先ほどと変わらず、母の腕に抱かれて優しくあやされている赤ん坊のように、波ともいえないちいさな海水の動きに、ただ心地良く揺れています。

海が、呼吸しているようだ。若者はそう思いました。

若者は、雨が当たったような気がしたあたりの頬を指で触りながら、目線を人魚に戻しました。確かに、水滴のようなもので頬は濡れています。彼はその水滴のようなもので濡れた指の匂いを嗅ぎ、ぺろりと舌で舐めました。そのとき、何か奇妙な感じがしました。地面の上に立っていると思っていたのに、ふと下を見たら自分が立っているのは足の大きさほどしかないとてつもなく長細いものの上で、バランスを崩したら最後、終わりのない暗闇のなかに吸い込まれていきそうな、そんな奇妙な感覚です。もちろん実際には彼は、決して立派とはいえないまでももう何十年も毎日彼を乗せて海に出ている彼の小さな船の上に、立っているのですが。

人魚の下半身が、魚のそれではなくなっていました。

先ほどまで彼女の下半身を覆っていた銀色の鱗が、彼女の「脚」の周りにちらばっています。

頬に雨が当たったような気がして、水面に目をやって、頬の水滴を指で拭い、匂いを嗅いで舐めた。このほんの数秒、長くても十数秒の間にいったい何が起こったのでしょう。人魚はいまや人魚ではなく、人間の女でした。

若者は、おや、と思いました。彼女の瞳の色が、あの薄い青の海の色が、さらに薄くなったような気がしたのです。いまやいっそう高い位置で超然と輝く月の光を映しては彼女の白い脚の周りで鈍く光る、鱗のような色。その瞳が、彼を見つめています。けれども彼には、人魚が、自分を通り越して背後の、夜、という果てしない無の空間を見ているように感じられてなりませんでした。

そこで彼はふと気づき、人魚の下半身にかけてやってあったシャツの位置を少し、ずらしました。人魚がそれをどう思っているのか彼にはわからなかったのですが、下半身が魚ではなく人間のそれになった以上、彼は目のやり場に少し困ってしまったのです。鱗が乾かないようにと濡らしたシャツはもう、ほとんど湿り気がなくなっていました。そうなると、彼女の上半身もまた隠してやりたくなりましたが、見渡しても、小さな船の中にあるのは網ぐらいで、適当なものがありません。「女神の乳房」は彼女の長い黒髪で少し隠れてはいましたが、その黒髪が途中でひっかかっている桃色の突起物につい吸い寄せられてしまう自分の目を若者は呪いたくなりました。真珠を取った後の貝に残る身に時折あんな色の身があったことを彼は思い出しました。コリコリとした歯触り、噛むと彼の歯を押し返してくるような弾力、彼の口の中に貝の身の甘さが広がります。

今から陸へ戻れば、まだ間に合う。村人たちが目覚める前に、森に入ることができるだろう。

若者は、その桃色の果肉から無理やりに、(かなりの苦労をして)自分の目線をなんとか引きはがし、もう一度人魚に、言いました。

「君に、食べさせてやりたいものがあるんだ」

人魚は少し首を傾げてから、にっこりと笑いました。あの白い花の、匂いがしました。

若者は空を見上げ、星の位置を確認してから、陸に向かって漕ぎ出しました。

Say My Name

引き合う肌の 隙間を満たすキスとささやきを

Say My Name 

触れ合う肌の その先にあるキスとささやきを

絶え間なく聞かせて

人魚は唄いながら、船べりから水面に手を伸ばし、海水を手で掬っては腕を高く掲げ、高い位置から優しい夏の夜の雨のように海に還しています。

果てしなく続くかのような夜の空と海とが交わる場所から離れ、船は陸へと近づいていきました。

浅瀬に船をとめ、若者は立ち上がりました。微かな人魚の歌声がやみ、まるで眠っているように静かな浜で唯一、ゆったりと繰り返す波のリズムが、自分は夢の中にいるのではないことを若者に教えてくれています。若者は人魚に手を差し出しました。けれども彼女は、彼を見上げて首を傾げているばかりで手を差し出しません。若者は、もう少し手を伸ばし、彼女の手を握りました。彼の大きな手とは正反対の、白くて細い、手でした。彼女はほっとしたように笑みを浮かべ、彼の手を握り返してきました。ぎゅっと。その力が思いのほか強いのに彼は少しびっくりしましたが、同時に胸のあたりになにかあたたかい空気のようなものが広がるのを感じ、彼もぎゅっと、彼女の手を握り返しました。若者は、空いた方の手でいまではすっかり乾いた彼女の膝の上のシャツを彼女の肩にかけ、立ち上がるよう促しました。

人魚は、いかにもおそるおそる、といった風情で膝を持ち上げ、からだをおこし、立ち上がりました。

「そうそう、片方づつ、前に出してごらん」

白い足が、一歩一歩船底の板を踏みしめながら前に進んでいきます。けれども船べりで躓き、前のめりに転びそうになった彼女を若者がしっかりと抱きとめました。人魚が手を伸ばして彼の頬に触れ、彼の唇に唇を寄せました。唇と唇が触れる、それだけでなんと甘美な味がこうも全身に広がるものかと、彼は驚きました。

若者は一旦先に船から降りると、彼女のからだを抱き上げて浅瀬に下ろしました。足が水に触れると彼女はいくらか安心した様子で、腰を屈めて指先で海水に触れました。それから手を砂に埋め、砂を掬って足にかけては足の指を動かしています。足の感触を楽しんでいるのだな、と彼は思いました。白い砂が舞う夜明け前の仄暗い水の中で、まるでそれ自体がなにか生き物であるかのようにうごめいている、白い砂よりさらに白い彼女の足の指が、なぜだか彼の心を締めつけるのでした。

「行こう」

若者は彼女の手を取り、歩き出しました。まずは家に寄って、彼女に何か服を着せなければかわいそうだ。

彼は今でも、死んだ両親と一緒に暮らしていた、彼が生まれた家に住んでいました。白い土に貝殻を混ぜたものでつくった、居間と台所、寝室だけの小さな家です。海岸からそう遠くにあるわけではありませんでしたので、ふたりはほどなく彼の家に到着しました。急いで箪笥をひっくり返して一番新しい服を引っ張りだし、彼女に手渡しましたが、またもや彼女は首を傾げるばかりで、洋服に袖を通そうとはしません。

そうか、服を着たことがないのだから、着方がわからないのか。

彼はそう思い、彼女の肩にかけていたシャツを取り、新しいシャツを彼女の肩にかけ、腕を持ち上げて袖を通し、ボタンを留めてやりました。それからズボンを履かせようとしましたが、まるで勝手がわからないようでただ立っているばかりなので、彼は跪いて彼女の脚をそっと片方ずつ持ち上げ、ズボンを履かせました。跪くとちょうど目の前に彼女の、白い肌にそこだけやけになまなましい黒い茂みの奥に秘められた場所があり、彼は途端にからだじゅうが心臓になったような気がしました。

彼女のからだの奥底にある芯から、白い花の香りとは異なる甘いいきものの香りがしていて、思わず目を閉じてその香りを胸いっぱいに吸い込もうとした自分をなんとか押さえて彼は息を止めました。その香りを吸い込んだが最後、自制心が利かなくなるのではないかとこわかったのです。

彼は立ち上がると先ほどまで彼女の肩にかけていたシャツを今度は自分で羽織りました。シャツに残る彼女の匂いが、ふわりと彼の嗅覚をくすぐりました。

先ほどより幾分強く彼女の手を握ると、彼はドアを開け外に出ました。

今夜の月は思いのほか長く空に浮かんでいるようで、夏の夜が明ける気配は、まだありませんでした。後ろ手にドアを閉めようとした瞬間、なぜか振り返らなければいけないような衝動に駆られた彼は、彼女の手をぎゅっと握ったまま振り返りました。生まれ育ち、これから先もきっと死ぬまで俺はここで暮らしていくのだなと思っていた家が、なぜだかどこかよそよそしく感じられるような気がして、彼は奇妙な喜びと少しの寂しさが入り交じった不思議な気持ちがこみ上げてくるのを感じました。なぜだか奥の台所で母親がいつものように大きな声で喋ってはひとり笑い転げている気配、いつもの窓辺で漁から戻った父親がパイプをふかしている気配がして、彼は目をこらして暗い部屋の中を見つめましたが、もちろんふたりともいるわけがなく、この家の中に彼以外の誰もいるはずもなく、そんな初めての感覚を訝しく思いながらも、彼はいま目の前でしなければならないことに意識を戻し、ドアを閉め、彼女の手を握り直し、前を向いて歩き始めました。

彼女はどこか足許が覚束ないようで、彼は歩く速度を緩めました。あたりはまだ暗いし、なんといっても彼女は歩くのが初めてなのだ。彼女が脚を手に入れたのは、ついさっき、なのだから。

森の入り口に着く頃には空が白みはじめているというのが彼の計算でしたが、なぜか今夜の月は、太陽に空の頂点の座を譲り渡すのを渋っているようでした。いつも通りでないことが起こるときは、立て続けに起こるものだな、と彼は思いましたが、今夜に限っては夜が長いほうがいいに決まっていましたので、いつも通りでないことはむしろ好都合でした。

この森にいて目覚めているいきものはどうやら若者と人魚ふたりだけのようでした。時折遠くでこの森に棲息している赤い尾の長い鳥の声が聞こえましたが、そのほかに聞こえる音といえば、ふたりがまだ青く湿り気のある下草を踏みしめるかすかな音と、少し疲れた様子の人魚の息づかいだけです。

そういえば何も喋っていないな、と気づいた彼は、こういうときには何か話すべきなのかもしれないとあれこれ考えを巡らせましたが何を話せばよいものやらさっぱりわからず、何度も開きかけた口をまたいつものようにつぐんでしまいました。人魚は、時折彼の顔を見上げて(彼の存在を確かめるように、彼が本当に隣にいるかを確かめるように)は、ひたすら足を交互に前へと運んでいます。

やがてふたりは少し開けた場所に出ました。ここまでくれば、「女神の乳房」が自生している一角まであと少しです。若者が空を見上げると、先ほどと変わることなく、銀色の絵具で夜空に描いたような月が若者と人魚を見つめていました。ほんとうに、月が意思を持って、自分たちを見つめているように、彼は感じたのです。

「月が、見ている」

若者はぽつりと呟きました。

「わたしの、代わりに」

わたしのかわりに。人魚がいま、確かにそう言いました。

「きみの、代わりに」

不思議な人魚の言葉を復唱すると、若者のあたまのなかのどこかでなにかがぱちんと音を立ててはまったような気がしましたが、なぜだかこわくなった彼は、それ以上そのことについて考えるのをやめました。そして、人魚のいくぶん汗ばんだ、けれどもひんやりとした手をもう一度ぎゅっと握りました。人魚は彼を見上げ、ふわりと微笑みました。その微笑みを見るとなぜだか彼は、今度は泣きたくなるのでした。

               記憶の飴玉

               わたしの脳のなかには

               宝物箱があって、

               そのなかにはたくさんの飴玉が入っています。

               誰かと恋をして思い出が増えるたびに

               飴玉も増えていくのです。

               ときおり、色とりどりの飴玉の中からひとつを選びだして

               口の中で丹念に溶かします。

               ある飴は、ぬるあたたかい夏の雨の味。

               ある飴は、車の窓から見上げた、凍えそうに寒い冬の星空の味。

               ある飴は、たぬき寝入りしているわたしのおでこにそっと押し当てられた唇の味。

               ある飴は、胸元でひっそり昨夜のできごとを主張するざくろの色の花びらの味。

               雑踏の中でいきなりしゃがみこみたくなる孤独の味や

               記憶に麻酔をかけたくて一気に飲み干したジンの味                                   

               わざとはしゃいだその裏の醒めきった細胞の味

               そんな味もたまにあるけれど

               いろんな味が組み合わされてできた

               いまのわたしの味を

               愛してくれる人がいるから

               それはそれで、いいのかな。