前編

すごく愛して片時もそばを離れたくないほど愛していて

そしたら次に生まれ変わったときにもまた愛しあえるんだろうか

あなたがあなたであると気づくために

わたしがわたしであると気づいてもらうために

しるしを刻みつけたい

二人の魂の真ん中に

冬は凍るほど寒く、夏は溶けるほど暑いその国で若者は海の近くに暮らしていました。金色の太陽が深い藍色の海に沈む頃小さな船に乗り沖に向かい、その日陸に戻ってからラム酒を一本と癖のあるチーズひとかたまり、それから干した杏を何粒かと交換できるだけの魚を獲って帰るのが彼の夜の仕事で、昼間は海に潜り海底の貝の口をこじ開け真珠を探すのが彼の日課でした。

細い筆に銀色の絵具で夜空に描いたような月がまるで涙を流しているように見えるある晩、いつものように若者が沖で魚を獲っていますと、なにやら大物がかかった感触が彼の手に伝わってきました。ひとりでこの生活を始めてから何度か同じような経験があり、その大物を持って街に行けばその後一週間は海に出なくてもよかったことを思い出した彼は、潮の匂いの染みついた網を懸命に引っ張りました。

ぬるん、と彼の小さな船に獲物が飛び込んできました。顔にかかった水飛沫を拭き、今回はあの高級娼窟へ行こうなどと思いを巡らせながら顔をあげたとき、細い月を覆っていた雲が晴れ、彼が目の前に見たのは、ひとりの女でした。月に照らされた体は青白く光り、長い黒髪がまるで海の底でゆらゆら揺れている海藻のように彼女の体に絡みついています。しかし、何より彼が目を奪われたのはその女の瞳でした。海の底から空を見上げたときに見える陽の光のような、どこか暖かく懐かしく、だけれども薄絹で隔てられどうしても触れることができない想いがからだの奥から込み上げてくるのを感じます。彼女の形のいい臍の下は、銀色の鱗で覆われていました。

彼は人魚に話しかけましたが、人魚はその瞳に月の涙を映しじっと彼を見ているだけで、口をきこうとはしません。きっと水から上がったきりだとよくないに違いない、俺が今まで獲ってきた魚は水から上げるとすぐに弱ってきたから、と思った彼は着ていたものを脱いで海に浸してから彼女の銀色に光る下半身にそっとかけてやりました。

人魚の瞳が一瞬、ぼうっと光ったような気がしましたがもしかしたら気のせいだったかもしれません。彼は月を背にしていたので、一瞬雲に隠れた月が再び顔を出し、その光が彼女のほとんど銀色に近い、果てしなく薄い青の瞳に反射したのかも、知れません。

若者はしばらくのあいだ、彼女を見つめていました。見つめていた、というより彼女から目を離すことができなかった、といったほうが正確でしょうか。その薄い青は、年に数回だけ見ることのできる海の色に似ていました。彼の生まれ育った国には海の色がその薄い青に染まる日には決して海に出てはいけないという言い伝えがあり、迷信深いこの国の人びとは、特に彼の死んだ両親のように生まれてから死ぬまで一度も村から出たことのないような純朴な人たちはそれを頑なに信じていて、いつ巡ってくるかわからないその日のために漁の終わりには最後にもう一度網を投げるのが古くからのならわしだったのです。
彼はというとそんな話を信じるなどくだらないと思ってはいたものの、いざ海が一面その色になっているのを目にするとやはり舟を出す気にはなれず、仕方なく空と海に向かって下品な呪いの言葉を吐きつけてから家に帰るか、余裕のある日には目の周りを黒く唇を真っ赤に塗ったくらくらするような強い香りのする女たちのいる店に行き水で薄められたラム酒を黙って飲むのでした。

彼にとって女といえばずいぶん前に亡くなった母親か街の女で、それ以外の女(といっても目の前にいるのは人間の女ではなく人魚でしたが)を間近に見るのはほとんど初めてといっていい経験でした。母親も街の女も女というものは例外なくお喋りで、彼が一喋ろうとする間に十喋り、もともと無口な彼が言葉を選びながらゆっくり喋るのが待ちきれないようで彼が何か言う前に先取りして言ってしまうか、あるいは彼が何を喋っているかには興味がないという態度を見せました。そんなわけで彼は、ますます無口になっていったのです。

人魚の肩先に残る水滴が一滴、彼女の肩から腕へと音もなく滑り落ちていくのが目の端に映り、若者の視線はつ、とそちらに吸い寄せられました。水滴は不規則なはやさで肌の上を滑っていき、やがて肌にはりついた黒髪に吸い込まれて見えなくなりました。風もなく、鏡のようになめらかな夜。まるで時間がとまったように、音も、動きも、何もない世界で、ただひとつ動きを見せている、彼女の肌の上を憂鬱そうに滑りおりる海のしずく。それを見て初めて、彼は、そういえば自分は生きていたのだ、と、黄泉の国から帰ってきたような気がしました。

若者は、人魚から少し離れたところに腰をおろしました。これからどうしたらいいのか、俄かには見当がつかなかったのです。だいたい、人魚が網にかかるだなんて、昔話でも聞いたことがありません。彼の知っている人魚とは、聞こえないほどの微かな声で恋の歌を唄いながらそっと舟に近づき、気がつけば海の男たちは彼女の世にも美しい声にうっとりと耳を傾け、ひとたび彼女の肌に触れれば彼女から離れられなくなり、自ら望んで人魚と共に海中に沈んでいくという、海の男たちにとって、一度は会ってみたいと強烈に惹かれるが同時におそろしくて決して会いたくはないという相反する感情を抱かせる存在でしかなかったのです。なかった、というよりも、幼いころからそう聞かされ続けてきたのです。しかし彼が生きてきたこれまでの人生で、実際に人魚を見た、会ったことがあるという人に出会ったことはついぞありませんでした。
尤も、せっかちな海の男のこと、歌声に魅了されるや否や彼女の肌に手を伸ばし、唇に触れ、彼女のからだから離れられなくなったところでそのまま海中に沈んでいったのであれば、実際に会ったことのある人と出会ったことがないということ自体、人魚の存在とその魔性を証明しているのかもしれませんが。

とまれ、彼は人魚と出会いました。彼女はいます。溶けるように暑かった夏の気配が漂う空気のなか、泣いているような細い月の光を浴びて、彼の目の前に。

人魚の指先が、さっき彼が海に浸してから彼女の下半身にかけてやったシャツに触れました。濡れたシャツの表面をわずかに撫でてから、彼女は顔を上げ、若者を見てにっこりと笑いました。

鱗が乾いてしまわないようにという俺の気持ちが通じたのだな、と思うと、それまで肩に入っていた力がいくらか抜けた気がして、思わず彼も、人魚に微笑み返していました。人魚は、シャツを撫でた指を今度は唇に当てました。母の、よく日に焼けたお喋りな唇とも、街の女の、幸薄そうな薄い唇をわざとはみ出して塗った、そこだけがぬめぬめと生きているような赤い唇とも違う、唇でした。

そうして人魚は唇にあてた指を唇から離すと、若者に向けました。ほっそりとした指が青い夜を背景になまめかしく浮かび上がり、若者は、思わず腰を上げて自分に向けられた彼女の指に近づき、そっと彼女の手に触れました。生まれたその日から太陽の光を浴びて育ち、来る日も来る日も網を引いてきた彼の陽に灼けた大きな手とは正反対の、太陽の陽を浴びたことなどなさそうな、(実際そうなのでしょうが)やわらかで繊細な手。それが、青い夜の色と銀色の三日月の光のいたずらなのかどうかわかりませんが、近くで見る彼女の肌は、彼が海底に棲む貝のなかで見つける真珠のような色をしていました。人魚の手が思っていたよりあたたかいのを少し意外だと思いながら、彼は、舌で唇を少し湿らせてから、人魚の指を自分の唇に当てました。そうすることが礼儀であるような、気がしたのです。

彼は人魚の唇に触れた指ではなく唇そのものに触れ、彼女のほっそりとした、けれど重々しそうなからだを抱きしめたい衝動に駆られました。けれど彼女は街の女とは違います。彼女の下半身はきらきら光る鱗で覆われ、彼を受け入れることは決してないでしょう。月の光を浴びて真珠色に光る彼女の肩を強引に抱き寄せる代わりに、若者は、彼  女の肩先に乾いてへばりついた黒髪の束を、指先でそっとつまんで後ろに流してやりました。

「帰りたいかい?」

なぜそんな言葉を口にしたのか若者は自分で自分のことがちっともわかりませんでした。気がついたら、人魚にそう訊ねていたのです。

アダムとイヴ

蛇にそそのかされて、

イヴは、食べちゃ駄目だと

言いつけられていたリンゴの実を齧ってしまいました。

そしたら世界が変わってしまいました。

アダムとイヴは、もともとはひとつだったんだろう。

アダムとイヴだけじゃなく、ふたりをとりまくすべてのものと

おなじひとつの存在だったんだろう。

でも、リンゴを齧ってしまったばっかりに、

別々の存在になってしまった。

だから求めあうのでしょう、きっと。

だから、肌と肌を密着させる、

つまり物理的に自分以外の誰かともっとも近い場所にいると、

楽園ですべてとひとつだったときに

似た気持ちよさを感じることができるのかな、と考えたりします。

吸いつくようにぴったりくっついたり、

ぶつかりあったり、そっと触れたり、

乱暴に触ったり。氷みたいだったり、

熱くてたまらなかったり、やわらかかったり、

引き締まって硬かったり。しっとりと汗ばんでたり、

さらっとしてたり、べとべとしてたり、噛みつかれたり。

でも、いくらくっついても、

肌以上に向こうへ行けないのがもどかしかったりもして。

アダムとイヴに還ることも、大事なミッションのひとつなのです。

人魚は彼の言葉を聞き、少し首をかしげました。長い黒髪が揺れると、なぜだか甘い花の香りがしました。白い花びらのなかで橙色の雄しべと雌しべがからみあっているような、どこか吐息混じりの甘い香り。深海の底にも花が咲いているんだろうか。そんな話は聞いたことがないけれど、彼女が深海を泳ぐさまはきっと白い花が水の中で優雅に踊っているようなのに違いないと考えながら、いま目の前に漂っている香りがやがて空気に溶け込み流れ去ってしまうのを惜しむように、彼は大きく息を吸い込んでから、もう一度訊ねました。今度は、舟から水の中に向けて人差し指を動かしながら。

長い睫毛に縁取られた薄い青がまた、ぼうっと光ったように見えました。

「ここに」

ここに。いま、彼女のわずかに開いた唇から聞こえた音はそんな音だったような気がするけれど、俺の気のせいだろうか。ここ、というのは、もといた海の底ではなく、この小さな舟の上のことだろうか。彼女が自分の言葉を理解したのもさることながら、それが本当にここ、この舟の上にいたいということなのであれば、若者にとってそれは驚きであり、同時にどこか泣きたいような不思議な気持ちが彼の心臓のあたりに不意に姿を見せ、じわじわと広がっているのを感じました。

「俺は陸に、戻らなきゃならないよ」

そう、ここにずっといるわけにはいかないのです。だけれども、彼女を連れて陸に戻るわけにもいきません。彼女の下半身は魚のそれなのですから。人魚が空を見上げます。彼女の細く白い喉と首から肩にかけての滑らかな曲線が彼の心を締めつけ、若者はあわてて人魚が見ている方向に目をやりました。人魚の目線の先は月でした。彼の網が人魚をこの舟の上に連れてきたときより幾分高い場所で、しかし宵のはじまりの頃と同じように、刃物のように冷やかな癖にどうしようもなく穏やかなあたたかさが滲みでてしまう光を放ちながら、銀色に揺れています。

若者は、おや、と思い、目をぱちぱちさせてからもう一度、月を見つめました。月が、ほんとうに泣いているように見えたのです。確かに今夜舟を出したとき、方角を確かめるために空を見上げ、まだ太陽の余韻の残るラベンダー色の空に浮かぶ今夜の月はどこか泣いているように見えると思ったのは事実ですが、いまはほんとうに、月のしずくが、今にも月の舳先から零れおちそうに見えるのです。銀色のしずくは徐々に重みを増し、ついには舳先を離れ、きらめきながら暗闇に吸い込まれていきました。人魚と出会い、月が泣くのを見るだなんて、俺は、何か魔法にでもかかっているのかもしれない。そう思いながら彼は目線を月のしずくが消えた漆黒の空から人魚へと戻しました。

彼女は、目を閉じていました。心持ち顎を上げ顔を空に向けて。長い睫毛が白い頬に、さらに長い睫毛の影を落としています。その長い睫毛が、昔何かの本で読んだ、一年中暑い国の森の奥に棲んでいるという美しい鳥が羽を広げた様子に似ているなとぼんやり考えていますと、彼女の閉じた瞼の端に光が生まれみるみるうちに透明な大粒のしずくとなり頬を伝って肩に零れ落ち、肩を伝って胸元に消えていきました。彼は思わず腰を浮かせ、彼女の頬を零れ落ちる涙を唇で受け止めました。目を閉じて、彼女の瞳を通してあとからあとから溢れだしてくる海のしずく(彼はそう思ったのです)をただただ無心に受け止めつづけました。やがて人魚が心持ち上向けた顔をゆっくりと元に戻したので、彼も、彼女の頬から唇を離しました。けれども、彼の右手は、彼がそう動けと命令もしていないのに、彼女の、常に濡れたような、その実もうすっかり乾いた黒髪に潜り込んでいきました。

あぁ、またこの匂いだ。

いましがた嗅いだ、白い花を連想させる甘い香り。心持ち頭を垂らし地面に向かって花を咲かせることで、自分の内で行われている雄しべと雌しべの秘め事を誰にも見られぬよう隠しているような。だが、それがゆえに、こちら側とあちら側を隔てるカーテンのようなその白い大きな花びらをそっとめくってみたくなるような。

若者は、人魚のつるんとした白い額に唇を押し当てました。頬の柔らかさとは対照的な、いくぶんひんやりとし、皮膚の向こうにある頭蓋骨の存在を感じさせるような、強い額。額から唇を離すと、彼の目が、彼女の閉じた瞼の端に残る小さな水のしずくを見つけました。先ほど彼が唇で受け止めた人魚の涙はやはり海の味がしましたが、彼が普段海だと思っている海の水とはどこか違う、と頭の隅で考えたのを思い出し、何が違うのか確かめようと、彼は今度、彼女の瞼の端を舌先で舐めました。彼の知らぬ海の味が、しました。
きっとこれは彼女が生まれ育った海の味なのだろうと、彼女の棲む場所はそこなのであろうと、そしてそこはきっと俺が行くことの叶わぬ場所なのであろうと考えると、彼は少し胸がきゅっとなるのを感じました。

そうして若者は、彼女の唇に、自分の唇を近づけました。近づけましたが、唇に触れるほんの少し前で、ふと動きを止めました。が、一瞬の躊躇ののち、唇は重なり合いました。

彼は自分の唇が、いくらかほかの男よりも厚く、大きいことを知っていました。街の女たちは皆、あんたは無口でつまらないけれどあんたの唇は上等だ、と言っては彼が口をつけて飲んだ酒の瓶を奪い合い、彼の前で瓶の口を咥えて見せましたし、娼館の女たちは、彼が唇で彼女たちの体を愛することを大層好みました。彼女たちがそれをベッドでせがむたび、どっちが金を払っているんだかわかりゃしないな、と彼は心のなかで苦笑いしたものです。いっぽう人魚のくちびるは薄く、透き通るような肌の色とさほど変わらないほど色も薄かったので、他の女たちがせがむように強く吸ったりしたら傷つけてしまいそうで、心配な彼は、壊れやすいものを扱うように、彼女の唇に触れるか触れないかの位置でそっと、何度も何度も、触れました。