奇妙な夜の訪問から数日が経ったが、僕の頭からは彼女の奇妙な言葉が離れようとはしなかった。あの夜、彼女が消えた後、僕はもしかしたらすべて夢だったのかもしれないと思ってリビングに戻ったが、まだ口をつけていないグラスと飲みかけのグラス、テーブルの上のふたつのグラスを見て、彼女の来訪が夢ではないことを知った。
あなたは、いつも、そう。
玄関のドアを開けると冬の暗い夜の空気が一気に部屋に押し入ってきた。彼女がそこに、立っていた。
「今晩は。」彼女は言った。
「よく来たね。」なぜかまた僕はそう言って微笑んだ。微笑もうと思ったわけでも「よく来たね」と言おうと思ったわけでもないのに、からだの奥底から突き上げてくる何かが僕にそうさせたのだった。
彼女は小雪混じりの風を連れ軽やかに僕の前を通り過ぎ、リビングへ続く短い廊下のちょうど真ん中あたりで立ち止まり、振り返ってこう言った。
「このあいだのつづきを」
僕はグラスをふたつとジョセフィーヌの瓶をテーブルに置き、氷を出そうと冷凍庫を開けた。が、生憎すぐに使えそうなサイズの氷がなく、あるのはどう考えてもグラスに入りそうもない大きな氷のかたまりだけだった。僕はボウルにその氷を入れると、戸棚からアイスピックを取り出し氷のかたまりを崩しはじめた。彼女がうっとりとしたような目で僕の手を見つめているのに気づき、ふと意識の焦点がずれたとき、振り下ろす場所が少しずれ、アイスピックが僕の左の人差し指をかすった。氷の上にぽたりと血が垂れ、僕は慌てて人差し指を口に含んだ。音もなく彼女の腕が伸びてきたかと思うと、細長い人差し指と親指が崩れた氷をつまみ、グラスに入れた。もちろん、血のついた氷も。そしてジョセフィーヌの蓋を開け、とくん、とくん、という音を味わうようにゆっくりと、グラスに飴色の液体を注いだ。血のついた氷の入っていないグラスを僕の右手に持たせ、自分は残りのグラスを持ち、グラスを持つ僕の指に自分の指を軽く当てると、彼女は、僕の血の入ったコニャックを喉に流し込んだ。こくん、と彼女の喉が鳴るのが聞こえ、僕はまた、血管がうっすらと青く見える程白い彼女の喉に目が吸い寄せられた。
「駄目よ」
彼女の、色味のない肌にそこだけ果物のように紅いくちびるが笑ったように見えた。
「あなたからなにかをしては、駄目」
そう言うと彼女は、コニャックをまた一口飲んだ。そして僕のくちびるに自分のくちびるを重ね、僕の血と彼女の唾液が混じったコニャックを、僕の口の中に流し込んだ。その琥珀色の液体は僕の唾液と交わり、さらに僕の体内深くに落ちていった。灼けるような甘い熱さが喉を通り、全身に広がっていく。彼女のくちびるが離れたかと思うとまたすぐに僕のくちびるに重なり、口の中にジョセフィーヌが流し込まれた。彼女の冷たい手が僕の髪に触れ、細長い指に僕の髪を絡めて弄びはじめた。そしてもう片方の手が、僕の頬に触れた。彼女の手は文字通り目が覚めるように冷たく、僕は思わず僕の手を重ねて暖めてあげようと手を動かしかけたが、
「さわらないで」
という彼女の言葉に金縛りにあったように動けなくなり、ただされるがまま、突っ立っていた。
彼女は何度もコニャックを口に含んではぼくの口に流し入れた。手の冷たさとは対照的に、彼女の口の中は強いアルコールのせいなのかやけに熱く、その癖なぜか彼女がくちびるを重ねるときにかかるかすかな吐息は氷のように冷たかった。彼女の細い指が一層深く僕の髪に潜り込み、冷たい指先が地肌を這うように撫で、冷たい指が這ったあとの地肌はしばらくのあいだ痺れたように指の通り道を残していた。
僕は、意識の半分は起きていたのだが、意識の半分で、夢を見ていた。
僕は、下から女性の顔を見上げている。彼女は僕を見ていない。窓の外を見て泣いているようだ。
僕は悲しくなった。僕がここにいるのに。なぜ彼女は僕を見ずに、窓の外を見て泣いているのだろう。
僕は彼女に呼びかけた。だが、声にならない。彼女が誰だかわからないのと、声をかけたくても、声にならないのだ。
彼女は、窓の外を見つめたまま「いつかまた」と呟いた。
僕は苛立って身じろぎした。すると彼女の大きな手が僕の小さな力ない肩をやさしくぽんぽんと叩いた。
僕は、母親らしき女性の腕に抱かれ、彼女の顔を下から見上げている、小さな赤ん坊だった。
彼女のことがこんなに愛おしいのに、彼女が誰なのかわからない。そして僕は、彼女の小さな赤ん坊でしかなかった。
どこか真っ暗な場所に僕はいた。
とくん、とくん、とくん、という音だけがきこえる。
まだ生きているのに間違って棺桶に入れられ地中に埋められてしまい、地下の棺桶の中で目を覚ましてしまったような気分だ。
僕がここにいて意識を持っていることを誰ひとりとして知らないのだ。
辺りは真っ暗で何も見えない。見えないというより、僕はおそらく目を開けてはいなかった。けれど目を開けるにはどうすればいいのかがわからない。からだを動かすにはどうすればいいのかもわからない。
絶望的な気分だった。
とくん、とくん、とくん、という音のさらに向こう側で、誰かがすすり泣いているような、音が聞こえた。
僕は彼女の下にいた。
頭上の月明かりが邪魔をして、彼女の顔は、よく見えない。色味を持たない白いからだがゆっくりと僕の上で動いている。
僕らは青い雪の上にいた。
そうだ、思い出した。
あの日、僕らは青い雪の上にいた。
知ってるかい? 降り続いた雪が真夜中にやみ星の見えない果てしなく黒い空に月足らずの満月だけが顔を出した夜には、まだ誰にも踏まれていない、降ったばかりの雪が、青白く光っていることを。
それを僕に教えてくれたのは彼女だった。そして、その雪を見に行きたいと言い出したのも、彼女だった。
†* *†* *†
数日前からこの村に降り続いている雪はやむ気配を見せず、僕らはここ数日、ずっと小さな家の中に閉じこもっていた。僕ら、というのは僕と彼女のことだ。それより前はこの家でおとうと暮らしていたのだが、気がついたらおとうではなく彼女と一緒に暮らすようになっていた。それがいつのことなのか、思い出そうとしても思い出せない。時折ふと、記憶の淵でなにかが蠢きそこに手が届きそうになることもあるのだが、意識して手を伸ばそうとすればするほど、それは乳白色の靄の向こうに隠れてしまう。
どこの村から来たのか、家族はいるのか、など、彼女のことは実は僕は何も知らなかった。ただ知っているのは、彼女は壮絶に美しいということだけだ。そして彼女のからだはまるで白い蛇のようだった。彼女の細長い手脚が僕のからだに絡みつくと、僕はこのままこの冷たくしっとりと吸いついてくるからだに絞め殺されてしまいたいという不思議な衝動に駆られるのだ。昼間はほとんど外に出ることがなく、彼女はただ日がな一日鏡に向かって良い匂いのする油をつけて髪を梳かしたり、くちびるに紅をさしたり、また僕が彼女に頼まれて山で探して採ってきた植物を煮たり、焼いたり、しぼったり、練ったりして薬や何やかやをつくっていた。彼女がつくったそれらを持って月に一度山向こうの大きな町で開かれる市に行くと、彼女がつくった薬や紅や色のついた粉は、飛ぶように売れた。痛みを止める丸薬を飲むと、どんなに酷い痛みもすぅっと引いていき、高熱に苦しむ子どもには、砂糖菓子に似せてつくった解熱剤がよく効いた。彼女がつくった紅をさすと、その女性のくちびるはまるで命を吹き返したようにいきいきと艶めき、頬に粉をのせると、まるで数時間も愛撫を重ねられ上気したような面持ちになり、目の縁に露草でつくった青紫色の粉をのせると、白目がより白く、黒目がより大きく潤み、見つめられると目を逸らせなくなるような蠱惑的な目になる、と女性たちの間で専らの評判で、最初は町の遊女たちのあいだで使われていたのがたちまち町中の女性を虜にしてしまい、僕が店を出す前から女性たちがそわそわと後をついてくるほどの人気ぶりだった。そして何よりもひっそりと売れていたのが、彼女がつくる、ある塗り薬だった。この薬を、男と交わるときに自分のからだや男のからだに塗ると、塗った部位がおそろしく敏感になるらしいのだ。彼女はこれを、効能書きをつけずにただ白い紙の包みに朱色の点をつけて僕に渡すので、僕もはじめはなんの薬なのか見当がつかずにいた。彼女に尋ねても、不敵な笑みを浮かべるばかりで教えてくれないのだ。
最初にこの薬を買っていったのは、その町の遊女のひとりだった。これはなんの薬か、と訊ねられ、ぼくは正直にわからないと答えたのだが、真っ白な紙に朱色の点だけをつけた包みに彼女は興味をそそられたようで、試しに買ってみる、と、紅や色粉とともにひと包み、買っていったのだ。
翌月、僕が山を越えて町にさしかかるや否や彼女が走り寄ってきて、このあいだの塗り薬が全部欲しい、と耳打ちしてきた。
「凄いのよ。お客さんにあれを塗ってやると、いつもと違うことをしているわけでもないのに、凄いの。自分に塗っても。アンタにこんなこと言うのもなんだけど、もう、男の指に触れられただけで、昇りつめてしまうほど」
それを塗られた客の男が店の外のあちこちでそれを吹聴し、置屋でも暇な時間が多くきせるばかり吹かしていたのが、一躍本人曰く「からだの乾く暇もないほど」一番の人気となったそうだ。
家に戻り、彼女にその話をすると、彼女はまた声を立てずにくちびるだけで笑った。僕は、僕にその薬を使ったことがあるか、と思い切って尋ねた。彼女は予想通り、ない、と答えた。なぜ使ったことがないのかわかったのかというと、僕は、彼女のなかで果ててはならないと彼女に言われ続けているからだ。そんな媚薬を塗り込んでしまったら、そんな我慢はできないに決まっている。だが僕はいつも、彼女の言いつけ通り、彼女のなかではなく彼女のからだの外で放出していた。なぜ駄目なのか、と訊いても彼女は答えてはくれなかった。
彼女は僕に、それまでの、おとうとふたり山でけものをしとめ、細々と米や野菜をつくっていた僕が知ることのなかった世界を教えてくれた。
彼女がゆらりと立ち上がり、僕にからだを擦り寄せてくるのがいつもの合図だ。それは昼夜を問わない。夜が明ける頃、気がつくと彼女がまだ眠っている僕の上に乗りからだを擦り付けていることもあれば、夕暮れどき、山から戻ったばかりで汗と土にまみれた僕のからだに白いからだを絡めてくることもある。さらりという微かな衣擦れの音に振り返ると、何ひとつ身につけず僕の背中にからだを擦り寄せてくることも、ある。そんなとき僕はからだの中心から涌き上がってくる熱いものを抑えることができず、彼女のからだを強く抱きしめるのだ。彼女は背が高く、いつでも超然とした目で前を見つめていたが、からだを擦り寄せてきた彼女を抱きしめると彼女のからだは急に小さくなったように、柔らかく、僕の腕のなかでいかようにも蠢いた。白い蛇のような彼女のからだは熱を持たず、僕がいくら彼女のからだを揺らし息を荒くさせようと、熱くなることはなかった。僕は、苦しげな表情の彼女の美しい額に汗の玉が浮かぶところが見たいと思った。そして、彼女の汗、彼女のからだから滲み出る液体をすべて飲み干したいと願ったが、けれども彼女のからだが汗で湿ることは決して、なかった。彼女のからだはいつもひやりとしていて、もちろん僕に触れる彼女の手も冷たかった。彼女の冷たい手で撫でられると、まるでからだの表面に彼女の冷たい指先でつまんだ氷のかけらを滑らされているような気がして、僕は気が遠くなりそうな快楽に溺れた。冷たい手で触れられた後にそこがあたたかな体内に飲み込まれると、僕は我を忘れてからだを強く彼女に打ちつけてしまう。そんなとき彼女は、よろこびに満ちた苦悶の表情を浮かべながらも、僕が抑制できなくなりそうだと見てとるといつもの超然としたまなざしに戻り、目線で僕に交わりの終了を告げ、からだを引いてしまうのだ。
その朝、いつものようにからだの上を這い回る彼女の指の動きで目が覚めた僕は、いつもにも増して、より一層彼女の指が冷たいのに気づいた。肌の上に氷を転がされているような感覚と、人肌でぬるまった布団の暖かさが妙に心地良く、彼女の指が這った場所だけが跡がついたようにいつまでも冷たかった。外側の冷たさとは真逆の熱い体内に飲み込まれた僕のからだの一部は、彼女の指の冷たさをいつまでもその表面に残しながら、熱くまとわりつく粘膜に擦られ、締めつけられ、そしていつものように、もうどうなってもいいから彼女の内側奥深くですべてを解き放ってしまいたいという欲望に駆られ、目の前で揺れている彼女のからだを強く引き寄せ、もうひとつの彼女の熱い場所、口の中に舌を差し込み、彼女がからだを動かせないよう、彼女の腰を強く掴んだ。
熱に浮かされたように潤みうっすらと涙すら浮かべていた半開きの目が、急に何かを思い出したようにいつもの超然としたまなざしに戻り、彼女はからだを動かすのをやめ、冷たい手が、腰を掴んでいる僕の手を払った。そして重なって蠢いていたからだを離すと、立ち上がり、着物の前をはだけたまま床の上を滑るように歩き、家の入り口の戸を開けた。
後ろ姿ではあったが、彼女の全身が喜んでいるのがわかった。なぜかはわからないが、何かいつもと違う、目には見えない透明な湯気のようなものが、彼女のからだから立ち昇っているように、僕には見えた。
気配を見せずただ静かに降り続き、家の外にある何もかもをすっかり白の色で覆い隠す雪は、不思議な透明感と圧倒的な存在感を持つ彼女の佇まいに似ていた。白の上にただ音もなくまた白が降りつもり、昨夜家の前につくった道はもう跡形もなく白の中に埋もれ、このままだと家から出ることも叶わなくなりそうだ。不意に風が吹きはじめ、風に乗った雪が僕らの住む小さな家の戸口から家の中に吹き込んで来た。彼女は着物の前をはだけたままだったので、ほぼ全身の素肌をその雪と風に晒しているはずだ。僕はそっと立ち上がり、彼女を驚かせないよう、戸を開けたまま雪を含んだ風を浴びている彼女に近づいた。
彼女は目を閉じ、いつでも少し笑っているような口をわずかに開け、雪と同じく白い乳房も、小さく抉れた形の良い臍も、僕のからだをとらえて離さない密かな場所もすべて白の世界に晒している。乳房の先端の、山桃のように丸く赤い部分が尖り、息遣いも、僕にからだを突かれているときのように荒かった。僕は体の底から涌き上がってくる欲望に抗うことができず、背後から、彼女の首筋にくちびるを当て、彼女の両脚のあいだに指を差し入れた。
彼女の細いからだがびくんと動き、弾けたように僕から離れた。
そして僕は、差しいれた指の感触から、彼女のからだは、僕と交わっているときよりも、今や強さを増し、降り積もった雪も同時に巻き上げながら彼女のからだに吹きつけている雪と風に全身を愛撫されているときのほうが数倍敏感に反応していたことを知り、激しく嫉妬した。何に嫉妬したのか、風と雪、という自然の力に嫉妬したのか、よくわからないが、今までに感じたことのない、怒り、悔しさ、屈辱のいずれでもない感情を感じていた。
気がつくと彼女は、いつの間にかはだけていた着物を直し、いつものように鏡の前に座って何事もなかったかのように長い黒髪に良い匂いのするあぶらをつけ、櫛で梳いていた。
「青い雪を、見たことはある?」
猟銃を磨いていた僕は、彼女の言葉に、ふと手の動きを止めて顔を上げた。朝からどのくらい時間が経ったのか、空を見上げても外の景色も一面真白なままで、僕は時間の感覚すら失いかけていた。初めて感じた嫉妬の感情をなんとか抑えるために、僕には、何か別に没頭できることをする必要があった。
彼女は、鼻を近づけると甘い果物のような香りのする艶やかな髪を白い紐で結い、くちびるにくれない色を、頬に桃色を、目尻に深い青をのせ、いつものように白いうつわに何種類もの草や花や木の皮や木の実を煮たものを入れ、薬を練っていた。
「雪は白いものだろう?」
僕の返答に、彼女はふふふ、とまた声を立てずに笑った。
「いつもはそう。だけど、ときどき、青くなるの」
彼女の話によると、ある条件がそろったときに、雪は白ではなく青白く光るそうなのだ。
けれども、それは稀にしか起こらず、一生に一度見ることができればそれは幸運であろう、と。そして今夜は、もしかしたら、見ることができる夜になるかもしれない、と。彼女はまるで唄うような調子で続けた。
三日三晩降り続いた雪がやみ、星のない漆黒の空に満月に少し満たない月が顔を出した夜、まだ誰にも踏まれていない、降ったばかりの雪は、内側から青白い光を放つのだという。
「わたしはそれをこの目で見たい」
彼女の、いつもの氷のように冷たくも見える超然とした目ではなく、熱に潤んだような目が、真直ぐ僕を見て、そう言った。