前編

いつもいつも彼女の手はひどく冷たくて、かと思えば彼女の口の中だけはひどくあたたかくて、その癖彼女の吐く息はおそろしく冷たかった。

いつから彼女といるようになったのか記憶が定かではないのだが、気がついたら冬の夜、彼女が家に現れるようになっていた。毎晩ではない、週に一度か二度、それも何曜日とか何時とか決まっているわけではなく、不意に風が窓をこするような音がしたかと思うと、チャイムが鳴るのだ。この窓をこするような音というのは偶然なのかなんなのか僕にはわからないのだが、彼女が現れる前、チャイムが鳴る前にたいてい聞こえてくる不思議な音だ。たとえていうなら猫が全身の毛を逆立てながら磨りガラスにからだを擦り寄せているような音。そしてチャイムが鳴る。彼女が鳴らすチャイムの音は僕の心臓をいつも直に突き刺し、全身に響いていく。そして僕はドアを開ける。彼女がそこに立っている。ただ、立っている。マンションの共同廊下を見ても、もちろん彼女でなくても今歩いてきた人の残像がそこに残っているわけなどないのは百も承知なのだが、なんとなく人の気配がない。人の気配がないというよりも、不思議と、場が冷たい感じがする。一階のエントランスを通ってエレベーターに乗ってエレベーターを下りて数軒分の廊下を歩いて僕の部屋のドアの前に現れるというよりは、不意に僕の部屋のドアの前に現れて、チャイムを押している、そんな感じがいつもするのだ。

僕がドアを開けると、彼女はいつもかろやかに言う。「今晩は。」その声の調子がなぜかいつも懐かしくて、僕もこう返す。「よく来たね。」

何がよく来たね、なのか自分でもよくわからないのだが、初めて彼女がこんなふうに僕のもとを訪ねてきたとき、今晩は、と言われ鸚鵡返しに今晩は、と返すのは無粋である気がしたし、そこで咄嗟に出てきた言葉が「よく来たね」だったような気がする。

あの日は都心で木枯らし一号が吹きましたとかいう毎年冬になると一度だけ流れる恒例のニュースを会社帰りの電車のなかで見た、北風が強く吹く寒い日だった。そのニュースを見た、隣で吊り革につかまっていたカップルの女の子が、彼氏のほうになにやら子どもの頃聞かされた寒い季節の怖い話をしはじめ、聞きたくないのになぜか僕の耳がどんなに意識して別の音を拾おうとしても彼女の声だけを優先的に拾ってしまい、結局耳に入ってきてしまったのだった。

彼女は雪国の生まれで、幼い頃、木枯らしが吹きはじめた日より後、冷たい風が強く吹く日には外に出てはいけないよ、とおばあちゃんに強く言われていたそうだ。なぜなら、冷たい風にやがて雪が混じりはじめると、小さな子は、その雪に巻かれどこかへ連れていかれてしまうことがあるから、と。小さな子が外にひとりでいると、風に乗って山からおりてきた雪が、まるでダンスをしているかのようにその子の周りをくるくると回りはじめ、やがて小さな竜巻のようになったかと思うと何事もなかったかのように雪の竜巻のなかにいた筈のその子もろとも竜巻が消えてしまうのだそうだ。おばあちゃんが子どもの頃、隣の家の男の子がほんとにいなくなっちゃったんだって、と彼女がそれを本気で信じていそうな口調で言うので、僕は思わずふっと頬が緩んだ。だからこういう日ってわたし、ちょっとひとりでいるのが怖いんだ、という彼女に、彼氏が、きょうは俺が泊まっていってやるから大丈夫だよ、と蕩けそうな声で言って彼女の髪を撫でている様子が目の端から伝わってきた。

これは彼女の作戦なのか、それとも素で怖がっているのかを判断することはできなかったけれど、僕は不意に、昔、両親に連れられて田舎の民宿に泊まったときのことを思い出した。

僕自身はスキーなどたいして興味がなかったのだが、両親が大張り切りで僕にスキーを教えたがるので、仕方なく楽しそうな顔をして一日をやり過ごし、宿に戻り、田舎料理を食べ、他の宿泊客と地酒を酌み交わす両親の隣でぼんやりと窓の外を見ていた。最初はまるでダンスをしているようにふわりふわりと舞っていた雪が次第に強さを増し、やがて都会育ちの僕が少し怖じ気づいてしまうような吹雪に変わっていき、僕は、怖くてたまらない癖に、吹雪を近くで見てみたいという気持ちを抑えきれずにそっと立ち上がり、窓のほうに歩いていった。

窓の内側は幾分曇り、びっしょりと濡れていて、僕は窓に手を押しつけた。手を離すと僕の手形が窓に残り、水滴がいくつも尾を引いて垂れた。曇ったガラスの僕の手の形の向こう側に、雪が見えた。風がさっきよりも強くなり、雪が窓にぶつかってくる。民宿の薄い窓にぶつかった風と雪はどこか切なげな音をあげ、僕はその音が、誰かが遠くでなにか叫んでいるように聞こえて急に怖くなり、後ろを振り返った。父と母が本当にそこにいるか、確認したくなったのだ。

父と母は先ほどと変わらず、さっきここで会ったばかりの人達と、楽しげに酒を飲んでいる。

その父と母よりも手前に、ひとりの女の人がいた。両手を膝に当て、腰を屈めて僕を覗き込んでいる。

「いまの音が、怖くなったの?」

ここの旅館の人だろうか、それとも宿泊客のひとりだろうか。

顔はもうおぼろげにしか思い出せないのだけれど、子ども心におでこが綺麗だなと思ったことだけは妙に憶えている。

「あれはね、雪女が、消えてしまった愛しい男を探して泣いている声なのよ」

彼女はもう一歩僕に近づき、顔を僕に近づけると、僕の耳元で、僕だけに聞こえるように、こう言った。

「なぜ、言いつけを、守れなかったの?」

僕はぎょっとして彼女を見、次いで父と母のほうを振り返った。ふたりとも、少し離れたところでまだ楽しげに話に興じていて、父の手が母の腰に回っているのを見た僕はなぜかひどく一人ぼっちな気がして怖くなった。

何かが僕の髪に触れた気がして目線を戻すと、彼女の手がそっと僕の髪に触れ細長い指が僕の髪をもてあそんでいた。

彼女の指はとても冷たくて、だけれども、彼女の指の動きはまだ幼い僕にとっても不思議と抗えないほど心地よく、僕は動けなくなってしまった。

窓の外は一層風が強まり、風と雪がガラス窓をこする切なげな音は悲鳴に変わっていた。あたたかな部屋の中にいるはずなのに、僕だけがガラス一枚で隔てられた、真白な雪が荒れ狂う向こうの暗闇にいるような気分になった僕は、父と母のほうに走った。

そのあとのことはわからない。僕はずっと父と母の真ん中に座り、顔を上げないようにしていたからだ。

「眠くなったの?」

母が僕の髪を撫でた。あたたかな手だった。けれども僕の右耳の上辺りには、彼女の冷たい指の感触がいつまでも残っていた。

電車が大きく揺れ、しばし記憶の湖の中に深く沈み込んでいた僕は、現実の世界に帰ってきた。そろそろ最寄り駅だ。

記憶というのは不思議なもので、いま現実に肉体はここにあるのに、脳のなかでは過去に起こった別のフィルムが再生され、あたかも自分がそこにいるように過去を経験できる。それを僕らは日常的に頭のなかで自由に行っているわけだが、記憶の中に、自分が第三者として存在している記憶がある。それを経験しているのも僕だが、もうひとりの僕が少し離れたところから自分を眺めている、記憶だ。この子どもの頃の雪の日の記憶はその類で、彼女のひんやりとした指の感触、彼女が顔を近づけてきたときの不思議に冷たい吐息、心臓が縮み上がるような感覚、それらを僕はいままさにここで経験しているかのように頭の中で味わっている一方で、その自分を客観的に見ている幼い自分の目線も同時に、経験していた。さらに言うなら、実は僕は、今まで、この出来事を思い出したことはなかった。記憶の湖の底に沈めたまま、30年近くが、経っていた。

電車を降りると、いつものように前を歩く人と歩調を合わせ、目線を下に向けて歩きはじめた僕は、ふと10メートルほど前からホームの端をこちらに向かって歩いてくる背の高い女性に目が止まった。目の端に彼女が映ると、僕の目が、彼女に自然と焦点を合わせたのだ。僕以外にも彼女につい目が吸い寄せられてしまった男が何人もいるのに気がついた。それほど彼女の佇まいには夕方のラッシュ時の人ごみの中でも圧倒的な存在感があり、かといって彼女本人は、そんなことにはまるで興味がなさそうな、不思議な透明感のある人だった。なんというか、圧倒的な存在感と、だけれども現実のものではなさそうな、浮遊感。彼女の周りだけ時間が止まってしまったような。彼女に目が止まった瞬間、一瞬だが僕にも静寂が訪れた。全身を痺れさすような静寂。その静寂はすぐに、電車が到着しますという構内放送や足音、ざわめき、風の音に取って代わられてしまったけれど、なんというか、よく「一瞬が永遠である」みたいな言葉を目にするとそれを理解できない自分に嫌気がさすほどだったのが、その言葉の意味を瞬時に体が理解した感じがした。けれどもそれは本当に一瞬で、きっと僕が彼女を見ていたのはほんの1秒や2秒のことだったと思う。振り返りたくなる衝動をなんとか抑え、僕はまた前を歩く人と歩調を合わせ、うつむき加減で階段を昇りはじめた。

鍵穴に鍵を差し込む、という動作が僕は好きで、このマンションを選んだ。いまはホテルのようなカードキーや暗証番号で部屋を開けるマンションが増えてきているのだが、僕は、鍵が好きなのだ。すべての凹凸が滑らかに合致しすんなり鍵が入っていくこともあれば、向きを間違えたり角度が違ったりでなかなか上手に入らないこともある。だけれども最終的に鍵穴は僕の差し込んだ鍵を奥の奥まで受け取り、僕が左側にひねってやると、観念したように扉を開けてくれる。鍵穴の奥で鍵をひねったとき、少しの抵抗とともにするカチャンという小さな音も好きだ。

ドアを開けると、暗い廊下のライトがぽっと灯り、冬の始まりを告げる冷たい北風を真正面から浴びて冷えきった僕の体を頭から照らした。僕は、暑いより寒い方が好きだ。なぜなら、もし死ぬとしたら寒さで死んだ方が美しいと思うからだ。暑くて汗まみれになって苦しんで死ぬよりも、だんだんと血が凍り意識が遠のき眠るように死んでいくほうが死に方として美しいと、子どもの頃から思っている。子どもの頃、といってももう中学生くらいになっていたと思うが、これを母親に話したことがある。母はびっくりしたような顔で黙って聞いていたが、「あなたらしいわね」と言って笑った。

僕は、リビングのドアを開け、エアコンを入れようとリモコンを手にしたが、ふとエアコンはきょうはやめておこうという気になり、代わりにジョセフィーヌという名のコニャックを飲むことにした。パッケージとラベルに惹かれ、たいして酒も飲めないのについ買ってしまい、ときどき思い出しては飲むだけなので一向に減る気配がない。グラスをひとつ、取り出し、ジョセフィーヌの蓋を開けた。こんなとき、誰かが一緒にいてくれたらなと思う。僕は今まで、恋愛が長続きしたことがない。僕が本気になりかけたところで、いつでも別れを告げられるのだ。しかも皆口を揃えて、僕が浮気している、あるいは他に好きな女性がいるはずだ、と言う。冗談じゃない、僕が本気になり始めた頃に、なのだ。そんなことが何度か続き、恋愛というものが、いやむしろ女というものが面倒になってもう随分経つ。だけれど、時折、独りでいることを寂しく感じ、誰かにここにいて欲しいと思ったりするのだ。例えば珍しく酒が飲みたいと思い、グラスをカップボードから、ひとつだけ、取り出す時。電車で隣にいたカップルのことをふと思い出し、もう一度、彼女は本気で怖がっていたのかあれは彼女の作戦だったのかと考えはじめたとき、チャイムが鳴ったような気がした。気がした、というのも、僕は昔からいわゆる「空耳」が多いからだ。風の音を誰かの声と勘違いしたり、誰も何も言っていないのに返事をしてしまうなどしょっちゅうなのだ。だから僕は自分の耳で聞こえていることをあまり信用していない。そんなわけで今回もチャイムが鳴ったような気がしたが構わずグラスにコニャックの口を近づけると、もう一度、今度はさっきよりもはっきりと、チャイムが鳴った。今度は気のせいではなく、本当の音として聞こえた。

スコープを覗き込むと、僕が帰ってきたときに点灯した玄関前のライトが誰もいない空間をぼんやりオレンジ色に照らしているだけで、人の姿は見えない。やっぱりいつもの空耳だったかとリビングに戻りかけたところで、外を吹いている木枯らしが一層強さを増し、風にこすられたドアがかすかに音を立てた。子猫が、中に入れて欲しいとドアを引っ掻いているような切なげな音。

もう一度、スコープを覗くと、そこに彼女がいた。

僕はチェーンを外し、横向きの鍵をつまみ、ゆっくりと縦にした。少しの抵抗ののち、かちゃんと微かな音を立て、鍵は開いた。

ドアを押し開けると、そこに彼女が立っていた。

彼女は言った。「今晩は。」

さっき彼女を見ていたのはほんとうに1秒か2秒、ただすれ違っただけなので、彼女の顔の造作を見る余裕もなかった。ただ数秒間、ひたすら彼女の存在に目を奪われただけだった。

目の前にいる彼女は目線が僕より少し低いくらいで、やはり背の高い人だった。170センチはゆうに超えているだろう。横に大きく白目の多い目、尖った鼻、上唇が少しめくれあがったようなくちびる、北欧の人のように色味のない肌。全体的にモノトーンの印象なのに、唇だけは赤く艶やかだった。その赤は、赤というよりくれないというべき色で、そしてその唇は、不思議と少し笑っているように見えた。僕の目は、「今晩は。」と言ったきりわずかに開いたままの彼女の唇から、離れられなくなっていた。

僕は答えた。「よく来たね。」

冷たい風がまた、ドアにぶつかってすすり泣くような音を立ててはね返りまたどこかに向かっていく。そうだこの風は彼女の体にも容赦なく吹きつけているのだと思い出した僕は、ドアをもう少し大きく開いた。彼女がするりと家の中に入り、また強く吹きつけてきた風がドアを外側から押し、僕が閉めるまでもなくドアはひとりでに閉まった。背後から風に吹かれた彼女の髪がふわりと持ち上がって流れ、僕の頬をさらりと撫でた。その冷たくて柔らかな髪の感触で僕は一瞬何かを思い出したのだが、すぐにその記憶はうっすらと玉虫色がかった乳白色の靄の向こうに消えてしまった。思い出そうと思えば思い出せそうな、感覚のかたまりとしては憶えている記憶であるのに、思い出そうとすればするほどわからなくなってしまいそうだと判断した僕は、考えるのをやめ、彼女を見た。それにしても彼女の存在感は独特だった。空間から彼女だけが浮き上がっているような、そう、この世界には属していないかのような、そんな不思議な存在感だ。もしかしたら本当にこの世界に属していないのかもしれない、と僕はふと思った。いや或いは、本当にこの世界に属しているのは彼女で、属していないのは僕のほうなのかもしれないが。

僕は彼女にスリッパを出し、リビングに案内した。廊下の淡いオレンジ色のライトに照らされた彼女の額は、とても美しかった。

僕は彼女にソファに座るよう勧め、とりあえず飲み物を準備しようと、カップボードからもうひとつ、グラスを取り出した。独りで飲むのは寂しいと思っていたのはほんの数分前のことだ、けれど僕はいまもう一人分、グラスを取り出している。奇妙なことに、そのグラスを使うであろう相手は、さっき駅ですれ違っただけの、見知らぬ女性だ。僕は一体何をしているんだろうかと可笑しくなった。しかも、彼女はなぜ僕の家を訪ねてきたのか、そもそもなぜ僕の家がわかったのか、それもわからない。何か大事なことを忘れているような、抗いようのない力が働いているような気がふとして、僕は柄にもなく少し怖くなった。

「氷を、入れて欲しいの」

思わず声を出しそうになるのを辛うじて抑えて振り向くと、彼女がすぐそこにいた。僕は冷凍庫から大きめのクラッシュドアイスをふたつ取り出しそれぞれのグラスに入れると、もう一度蓋を開け、氷の上からコニャックを注いだ。

とくん、とくん、とくん、コニャックがふくよかな音を立て氷を少しずつ溶かしてゆく。

「わたし、この音が好き」

彼女は、コニャックを注ぐ僕の手とグラスに耳を近づけた。

「心臓の音を聴いているみたい」

彼女は、僕の手からジョセフィーヌの瓶を取り上げると、もうひとつのグラスのなかの氷山にゆっくりと液体を注いだ。その一連の彼女の言葉と動作が僕の脳の奥の奥にある何かを痺れさせた。先ほど感じた疑問などもうどうでもよくなり、一瞬足元から全身を駆け上がった恐怖もどこかへ消え失せてしまった。彼女は、自分がコニャックを注いだグラスを僕に手渡し、僕が注いだグラスを自分が手に取り、呟くように言った。

「再会に」

僕がグラスを彼女のグラスと合わせようとすると、彼女はグラスを持つ指を僕がグラスを持つ指に軽く当て、コニャックに口をつけた。氷がカランと音を立ててグラスの中で回り、彼女の上唇に当たった。くれないの色をしたくちびるの隙間から同じような、けれどくちびるよりも少し血の色に近い舌が顔を出し、氷を舐めた。その舌は次に彼女自身の上唇を舐め、コニャックで濡れたくちびるを彼女は今度は氷に押しつけた。僕はその一連の動作を、ただ惚けたように見つめていた。頭のなかのどこか冷静な部分が、いまの状況は異常だ、と僕に告げている。けれど残り98%の僕がそんなことはどうでもいいと主張し、ただ目の前の彼女だけを見るよう僕に指令を出す。僕は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。冷たい北風に冷えきったままなのか、彼女の頬はとても冷たかった。

彼女は僕の手が頬に触れていることなどおかまいなしに、氷におしつけていた唇を離すと、コニャックを一口飲み、目を閉じた。熱い液体が喉を通り、食道を浸食し、胃へと到達するのをじっくりと味わっているかのように、咲き始めた花びらのように少しめくれあがった彼女の両のくちびるが、わずかに開いている。僕は、彼女の頬から首筋へと手を滑らせた。首筋もやはり冷えきっていて、僕は、どんなふうにしたらこのからだが汗をかくのか、この冷えきったからだが上気し汗をかくのを見たい、自分の手で上気させ汗をかかせたい、そんな欲望に駆られた。

すると彼女は、まるで僕の心を読んだかのようにするりと僕の手から抜け出しこう言った。「あなたは、いつも、そう」

そう言うと彼女はグラスを置き、ふいっと僕に背を向け、滑るようにリビングを出て行った。あっけにとられた僕が後を追ったときには既に彼女の姿は家の中にはなかった。玄関のドアを開け共用廊下にも出てみたが、冷たい北風が勢いを増して廊下をすり抜けていっただけだった。