ある場所から空気の匂いが変わりました。そのすぐ先が、緑の色すら他の場所と違う、「女神の乳房」の自生地です。目の前に垂れ下がる、鮮やかな緑色の、沼の浅瀬を悠々と泳ぐ細長い蛇のような蔓をかきわけたその先に、人魚のからだほども白い楕円形の果実がまるでふたりの到着を待っていたかのように、姿を見せました。
若者は思わず人魚から手を離し、ズボンのポケットから錆びたナイフを取り出すと一番手近な果実を切り落としました。
振り返ると、立ちすくむ彼女の手が彼の手を探して宙をさまよっているのが、見えました。
若者の胸の奥の、気づかないように、見ないようにしてきた何かが針で突き刺されたようにずきんと痛みました。
彼女は、見えないのだ。
彼女の目は、見えていないのだ。
俺と歩くための脚と引き換えに、光を、失ったのだ。
手にした果実を放り投げ、彼は彼女を抱きすくめました。
人魚は安心したように、彼に全身を預けます。若者は、狂ったように彼女の髪に顔を埋め、泣きじゃくりました。なぜだか、涙が止まりませんでした。父親が死んだときも、それからほどなくして後を追うようにして母親が死んだときも、こんなにもとめどなく涙があふれてきたことは、今まで一度たりともありませんでした。
人魚の手が、彼の髪を撫でました。細い指を、彼の、男にしては少し長めに伸ばした髪に差し入れ、優しく、まるで教会のオルガンを弾くように、優しく、指に絡めながら、撫でています。
どのくらいそうしていたのか、若者が顔を上げると、生い茂った濃い緑の遠く遠く上のほうで、月がふたりをやさしく照らしていました。すっかり乾いていたはずの人魚の長い髪が、肩のあたりからまた彼の涙で湿り気を帯び、艶めいています。人魚は、彼の肩に両手を置き少し爪先立って、彼の目の端に残る涙を唇で拭いました。月が今よりももう少し東よりの空の低い位置にあった頃、船の上で、彼が彼女にそうしたように。
若者は彼女を抱きしめました。彼女が何か自分にとって得難い宝物であるかのように、彼のからだすべてを使って彼女を包み込むように、抱きしめました。
「すぐそばにいるから、少しここで待っておいで」
そう言うと彼は、もう一度ポケットからナイフを取り出し、あたりを見回して、これと思う果実を蔓から切り離しました。夜の空気のなかで、白い果実は昼間見るよりも不思議に光って見えるような気がします。ナイフで切れ目を入れ少し力を込めてねじると、その一帯を満たす甘い匂いがいっそう強くなるとともに割れ目からルビー色の果汁が溢れ出てきました。
彼は人魚の手を取り、その果実を両手で持たせると、彼の手を添えて彼女の口元に運びました。割れ目から溢れ出る果汁が彼女の薄い唇に触れると、彼女は一瞬びっくりしたようですが、唇についた果汁を舌先で舐め、そして笑顔を見せました。若者は心がよろこびに満たされるのを感じました。それから彼女は割れ目に唇をあて、果汁を吸い、喉を鳴らして飲みました。彼女の唇の端からルビー色の果汁がほんの少し垂れているのを見て、彼はからだの芯がかっと燃えるように熱くなるのを感じました。人魚が、あ、と小さな声をあげ、自分が唇をあてていたほうを彼に向け、果実を彼に差し出しました。ここに、彼女の唇があてられていた。若者はそう思いながら割れ目を舌でなぞり、やむことなくあとからあとから滲み出てくる果汁を音を立てて吸いました。
彼は、人魚がいつの間にか目を閉じ、彼が果汁を吸う音をじっと聴いているのに気がつきました。若者は、割れ目に指をあてがって果実を一気にふたつに割りました。果汁よりもさらに濃いルビー色の果肉が顔を出しました。人差し指と中指を匙がわりに沈め、果肉を掬うと、今度はそれを人魚の、きっと音を聴くことに全神経を集中しているせいでしょう、わずかに開いたままになっている口元に、運びました。口の中に滑り込んで来た甘い果肉を彼女はしばらく舌で転がしてから奥歯でぎゅっと噛み、口の中に広がる果汁の味を楽しんでいるようです。彼女の細い喉を果肉が通っていくのを確認してから、彼はふた口目の、先ほどより少し大きめの果肉を彼女の口に運びました。
彼女の両手が彼の手首を優しく押さえ、彼女は、彼の指ごと果実を口に含みました。彼女の柔らかであたたかな口の中で、ひんやりとした果肉とともに、彼の指に彼女の舌が絡まります。先ほどと同じく奥歯で果肉を噛んでから飲み込むと、彼女は目を閉じたまま、まるで彼が確かにそこにいることを舌先で確かめているかのように、舌先を彼の二本の指に這わせました。彼女の舌は、ちょうどこの果肉のようなルビー色をしていて、夜に森を歩いていると時折、花をつけた木の枝でひとやすみしているのを見かけるあの海と同じ色をした蛇のように、しっとりとしていました。夜半の月明かりが、目を閉じて無心に彼の指に舌を這わせる彼女を上空からやさしく照らしています。若者は、静かに目を閉じました。目を閉じて、ただ彼女の舌が彼の右手にもたらす感覚だけに彼のすべての神経を集中しました。まるで右手が彼自身であるかのように。
彼女の舌の動きがもたらす心地よさが、海に潮が満ちていくように彼のからだに広がっていきます。それは、街の女たちが彼のからだにまたがってうめき声を上げながら腰を動かしているのを見ているときの感覚はむろんのこと、つい数分前、月明かりの下無心に彼の手に残った果汁を味わう彼女を見ていたときの感覚とも、違いました。ただ、次にどちらに動くのか、何をするのか予想もつかない彼女の舌のうごきを、皮膚のうえに存在するすべての感覚を開いて待っているその状態が、とてつもない至福の状態であるように感じられたのです。
若者は、この至福の感覚を彼女にも味わわせてやりたいと、思いました。彼女をびっくりさせないよう、左手の手のひらをそっと彼女の頬にあて、右手を彼女の口元から離しました。そしてルビー色の果肉に指をさし入れ、もう一度、今度はいままでよりも大きく掬い取り、彼女の唇に近づけました。果実の甘い匂いがいっそう強く、夜の空気を満たします。掬い取った果実を彼女の唇に近づけると、彼女は形の良い鼻を少し動かして、匂いを確かめるようなそぶりをみせました。彼は、少しひんやりとしたその果肉を彼女の唇にあて、彼女の唇をなぞりました。したたるルビー色の果汁で彼女の唇を彩ってやるように。先ほどの彼がそうであったように、彼女が全身の感覚を唇に集中しているのが、閉じた瞼と少し笑ったような半開きの唇から、伝わってきます。
何度か唇をなぞってから、彼は「女神の乳房」をつまんだ指先を彼女の唇から逸らし、そのまま彼女の首筋へと転がしてゆきました。彼女が息をつめて次の動きを待っているのが、頭を心持ち後ろに傾けて白い首と胸元を彼に向けた彼女の仕草から、わかります。若者は、ルビー色の果肉を、彼女の首筋から胸元へと滑らせていきました。大きく息を吸って心持ち胸を持ち上げた人魚の吐息が不意に彼の腕にかかり、人魚の吐息のかかった場所の皮膚が、そこだけ別世界のようにざわめきたちました。
彼は、果実が彼女の乳房の頂点に達するほんの少し前で果実を滑らせるのをやめ、今度は白い肌の上に果肉が残したルビー色の道筋を指先でなぞりました。人魚のわずかに開いた唇から溜め息が漏れ、若者は、溜め息となって唇から出てくる前に彼女の吐息をすべて自分が吸い込んでしまいたいという衝動に駆られ、先ほどの果実を自分の口に含むと、彼女のからだには大き過ぎる彼のシャツに包まれた細い肩をそっと抱き寄せ、彼女に口づけました。
彼女の肩が、少し驚いたようにかすかに動きました。彼が、口に含んだ果実を舌で彼女の口の中に向かって押し出すと、人魚はなぜかくすぐったそうに身をよじり、果実を舌で受け止め、歯を軽くあてがい噛んで果汁を滲ませてから、舌に乗せて彼の口の中に戻しました。果汁が滲んだそれを口の中で味わいながら、彼女の上唇と下唇を交互に自分の唇で挟み込むように何度も何度も若者は人魚に口づけ、そして、彼女の海の中に、深く、深く、沈み込みたいと思うのでした。
若者が人魚の唇から自分の唇を離すと、人魚は、閉じていた瞼を開けました。ほとんど銀色に近い、その薄い青の瞳には、きっと彼の姿はもう、映っていないのでしょう。若者は、胸の奥の奥、彼のからだの一番深いところからわきあがってくるあの想いをもう一度、感じました。彼女の瞳を初めて見たときと同じ、海の底から空を見上げたときに見える陽の光のような、どこか暖かく懐かしく、だけれども薄絹で隔てられどうしても触れることができない想い。けれどもいま、彼はその薄絹をめくり、その想いに身を任せることを決めました。
彼女の髪を撫で、瞼に唇を押し当てると、彼女はまた、安心したように目を閉じ、彼に全身をあずけました。彼のがっしりした胸に押しつけられた乳房のあたたかみを感じながら、若者は、ふと誰かが見ているような気がして目を上げましたが、誰もいるはずがありません。この場所を知っているのはおそらく、この村、いえこの国でも今は彼ひとりなのですから。
今夜は不思議なほど長く感じられる夜の空気に、あの、白い大きな花の匂いが漂いはじめました。白い花びらをそっとめくると、なかで橙色の雄しべと雌しべがからみあい、雄しべと雌しべのからだを伝って蜜がとろりと流れ出してくるような、吐息混じりの、甘い香り。そして花弁の奥深くからは、彼女の前に跪いたときに嗅いだ、あのいきものの匂いがしてきます。ああこれは、彼女の匂いなのだ。その香りのなかに全身を埋もれさせながら、彼は、頭のどこか片隅で、ぼんやりとそう思いました。
先ほどよりも低い位置におりてきた細い、銀色の月が、けれどことさらに光を増しているように、見えました。
若者は、彼の小さな船で沖にいました。
いつもと違うのは、いまは太陽が沈む頃ではなく太陽が昇りはじめる頃だということと、彼の隣には目の見えない、人間の脚を持つ人魚がいるということです。
もう命あるものすべてが永遠に眠ったままで朝が来ないのではないか、この世界に存在するのは自分と人魚だけなのではないか、と思うほど(そうであったらどんなにいいことか、と彼は心底思いましたが)静かで長い夜もそろそろ終わりに近づいてきたようで、随分と長い間空に浮いていた月が、先ほどまで若者と人魚のいた森の向こうに沈んでいこうとしています。空に月も太陽も見えない、夜と朝の境目の時間、その一瞬に、この果てしなく続くかのような夜の空と海が交わるところまで行こうと、彼は船を漕ぎました。人魚は、彼の肩にもたれかかり小さな声で歌を唄っています。
海から陸に向かったときも、彼女がこの歌を口ずさんでいたのを若者は思い出しました。
Say My Name
引き合う肌の 隙間を満たすキスとささやきを
Say My Name
触れ合う肌の その先にあるキスとささやきを
Say My Name Say My Name
永遠に続くキスとささやきを
絶え間なく聞かせて
夜の空と海が交わるところにいけばどうなるかなど、彼にはわかりませんでした。けれどもそこが、彼女の涙と同じ味の海が広がる場所、彼女が生まれ育った場所、であるような気がしたのです。気がした、というより、その想いは確信に近いものでした。薄絹をめくりその先に進んだからには、その場所に行かねばならないという、彼女と交わった瞬間に彼を貫いた直感が、オールを漕ぐ彼の腕を動かしていました。
まだ夜の残る西の森の向こう、緑おい茂る木々の陰に、月が隠れようとしています。
先ほどまで、境目などないかのように溶け合っていた空と海が少しずつ色を変えはじめました。
若者のオールを漕ぐ手がとまり、人魚の唄声がやみました。
若者はオールを置いて立ち上がると、彼女の手を取り、立ち上がらせました。
「連れていって、くれないか」
金色の太陽の光のかけらが深い藍色の海の向こうに現れ、西の森の向こうに、銀色の月のかけらを残して月が沈んだその瞬間、若者は人魚を強く強く抱きしめ、抱きすくめられた彼女の目の端に浮かんだ涙を唇で吸いとりました。彼女もまた、彼のからだに手を回し、強くだきしめ、ふわりと微笑みました。
ふたりのからだを金色の光が包み込むと、空と海とが、もう一度、一瞬だけ、ひとつに溶け合いました。
やがて、冬は凍るほど寒く、夏は溶けるほど暑いその国にいつもと同じ朝がやってきました。
陸から遠く離れた沖合いには、なぜか、誰も漕ぐ者のない小舟がゆらゆらと漂っていました。
Fin.