彼女はたいてい一日に何度か、ふと思い出したようにそのとき何かしていた手、それは薬を煮込んだ鍋を右に数回、左に数回、と規則正しくかき混ぜる手だったり、細い筆の穂先を舌で濡らし、僕が市で彼女のために買ってきた螺鈿の小箱の中に入れた紅を濡れた筆の穂先で撫でそれをくちびるに何度も何度も当て時間をかけて紅を塗っている最中の手だったりするのだが、その手を不意に止め、僕に体を擦り寄せてくる。僕が縄を編んでいようが食事をつくっていようが、翌日の猟のため銃に鉛の弾を込めていようが、そんなことには彼女は興味がなく、自分がふと思い立ったときに、僕と交わろうとするのだ。僕はそれを何とはなしに気に食わないと思うことがあり、そんなときには、先ほど戸口に立って雪と風に前半分の裸身を晒していた彼女に黙って手を触れたように、自分から、何かしている彼女の肌に手を伸ばすことがたびたびあった。けれども彼女はそんなとき、僕がいくら彼女のからだを丹念に、時間をたっぷりかけ、全身汗まみれになって愛しても、決してからだを開いてはくれなかった。
その日、彼女が僕にからだを擦り寄せてくることはなかった。ただ時折ふわりと立ち上がり、滑るように床を歩き、戸口に立って外を見ては溜め息をついて戻って来るのだった。そういえば、僕が歩いたり彼女のからだを強く突いたりすると軋んだ音を立てる床は、彼女が歩いても音を立てないことにいま初めて気がついた。
僕はそれから何度か外に出て、雪まみれになりながら家の周りの雪を片付け、寒さをしのぐために火を焚き、彼女のつくる薬や紅や色粉で得た金と交換してきた、とろりとした強い酒を飲んだ。いつの間にか僕はうつらうつらして、夢を見ていた。彼女がどこかに行ってしまう夢だ。もっと正確に言うと、白い花が雪のように舞い散るなか彼女が男と手を繋ぎ消えていく夢。夢の中で僕は、彼女は、その男には彼女の中で果てることを許しているのだと思っていた。花吹雪の向こうに消えてゆく直前、男と彼女が振り向きかけたその瞬間、僕は、僕の髪を撫でる冷たい指に、まどろみの世界から現実の世界へと連れ戻された。目を開けると、きれいに紅をさした彼女の、上唇が少しめくれ上がったくちびるが目に飛び込んで来た。次いで、彼女の色の薄い、琥珀色の瞳が僕の目を覗き込んだ。髪の表面に触れただけでその冷たさがわかるほど冷たい彼女の指が僕の髪のなかに潜り込み、僕の地肌を這うように撫でた。撫でられた地肌からじわじわと心地よい痺れが脳を通り首筋を通り全身に広がっていく。思わずまた目を閉じようとした僕に、彼女は言った。
「雪を見に、行きましょう」
戸を開けると、最後に雪の片付けをしてからまたひとしきり降ったようで家の中に雪が少しなだれ込んで来たが、もうすっかり雪はやんでいるようだ。腰の高さほども降り積もった雪と灰色の暗い針葉樹の森、その上に広がる、星明かりも月明かりもない果てしなく黒い空。いつもの見慣れた世界のすがたはそこにはなかった。彼女は僕が彼女のためにつくった、内側に毛皮を張り、雪が染みないよう外側に何回もけものの脂を塗って仕上げた長い靴を履き、外に出た。僕もあとに続いたが、ふと思いついて一旦家の中に戻ってから、彼女の後を追った。あたりはしんとして、時折針葉樹の上のほうから落ちてくる雪が積もった雪の上に落ちる微かな音以外、何の音も聞こえなかった。彼女は、行き先をわかっているような足取りで森の奥へとやはり滑るように、歩いていった。やがて目が夜の色に慣れた頃、彼女がふと立ち止まり空を見上げたので、僕もつられて上へと目をやった。何本もの針葉樹が漆黒をつんざくように上へ上へと伸び、その先に、ぼんやりと白い光が見えた。
月だ。月を覆っていた黒い靄のような雲が少しずつ風に流され、月が顔を出したのだ。はじめはぼんやりと、しかしやがてはっきりと姿を現しはじめた月は、一見満月のようだったが、よく目を凝らしてみると、ほんのわずか真ん丸ではないようだった。
降り続いた雪がやみ、星のない漆黒の空に満月に少し満たない月が顔を出した夜、まだ誰にも踏まれていない、降ったばかりの雪は、青白く光を放つーーー
昼間に彼女が唄うような不思議な調子で言った言葉が甦り、僕は彼女を見た。
彼女はもう、空を見上げてはいなかった。
このあたりは確か冬になると寒椿が咲いている辺りだったと思うが、あの紅い花びらもいまは雪の下に埋もれてしまっているのだろう。そしてその、彼女のくちびるのように紅い寒椿を覆い隠しているであろう雪が、青く光っていた。
青い、といってもここから遠く離れた海の青や、空の青や、彼女が露草をつぶしてつくる粉のような青ではない。降り積もった雪が、その内側奥深くから青白い光を放っている。例えていうなら、彼女が紅をしまってある螺鈿の箱の乳白色に輝く部分のような、いつだったか市で彼女への土産に買ってきた貝殻の内側のような、そんな光を湛えた薄い青に、雪それ自体が、光っているのだ。
彼女は青白く光る雪を、ただ見つめていた。
青白く発光する雪と、灰色の針葉樹林、わずかに欠けた満月と漆黒の空。
そのなかに佇む彼女は、あまりにも美しく、儚く、僕の目には、彼女のからだの周りも、雪と同じ青白い色の光が取り巻いているように見えた。
僕は彼女の首筋に手を伸ばし、白いうなじに口づけた。振り返った彼女のくちびるにくちびるを重ね、細く滑らかな曲線を描いて反り返った腰に手を這わせた。彼女のからだはやはりいつものように、おそらく降り積もった雪と同じくらい冷たく、にもかかわらず、彼女の口の中だけは熱く湿り、僕の差しいれた舌を包み込んだ。僕は彼女をそっと、青白く光る雪の上に横たえた。
僕が吸いついたために彼女が時間をかけて丁寧にくちびるに塗った紅がくちびるからはみ出し、やけに毒々しく紅く、まるで血を流しているように見えた。青白く光る雪と背後の暗い空と森、そのなかに、くちびるのくれないと、はだけた着物から覗く彼女の乳房の蕾、そして着物に描かれた赤い花びらだけが、妙に鮮やかに浮かび上がっている。
雪の下に隠れた寒椿の木が、青白く光る雪の上で戯れる彼女と僕の寝台となった。
彼女のからだは雪の上にあってもその冷たさに変化はなかった。僕も不思議と、全身に纏わりつく雪の冷たさを不快と感じることはなかった。むしろ、目の前の彼女だけでなく彼女のかけらたちが僕の全身に纏わりついているようで、愛おしさすら憶えていた。
僕は、彼女が腰の辺りで髪を結っている白い紐をほどき、長い黒髪を青白い雪の上に広げてみた。青白い雪の上で彼女の色味のない顔とからだはほとんど雪と同じ色のように見え、まるで血を流しているようにくちびるからはみ出した真赤な紅の色とも相俟って、不意に僕は、言い知れぬ不安が、青白い雪の上に広がる彼女の黒髪のように、心に広がっていくのを感じた。このまま彼女が消えてしまうのではないかという気が、してきたのだ。その不安の奥から僕の心に浮かび上がってきたのは、先ほどのうたた寝で見た夢の光景だった。白い花が雪のように舞い散るなか、彼女が、男と手を繋ぎ消えていく夢。
僕は、怒りにも悲しみにも似た嫉妬の感情が、自分の全身を支配していくのを感じた。
彼女は目を閉じ、口をわずかに開いて、青白い雪の上に横たわっている。彼女が身じろぎしたときに顔を出したのか、雪の上に乱れ広がる黒髪の隙間に寒椿のくれないの花びらが僅かに覗き、そのくれないの色が、彼女のくちびるから零れ落ちた血のようで、僕は慌てて、もともと冷たいのだからいまも冷たいに違いないことはわかっているにも関わらず、彼女の頬に手を触れた。
ぞっとするほど冷たい彼女の頬は、だが柔らかく、すべすべしていて、僕はいまだ目を閉じたままの彼女に覆い被さり、着物の裾を割って彼女の中に侵入し、彼女の氷のようなからだを自分のからだの熱さで少しでも溶かそうと、無駄だとわかっていても、自分のからだで彼女のからだを揺らさずにはいられなかった。
彼女はまだ目を閉じたままだ。
僕は、懐から小さな紙包みを取り出した。
表に朱色の点だけがついている。
音を立てないように包みを開くと、中には緑色の軟膏が少し、入っていた。苔のような深い緑に、ところどころ点々と赤や黄、青、銀などの色がわずかに混じっている。
僕はその軟膏を指に取り、彼女の脚の間を愛撫するふりをして彼女の秘められた部分に塗りつけ、彼女の中に押し入っている僕のからだの一部にも塗り込んだ。紙包みにほんのわずか残った軟膏をすべて指に取り、彼女の桃色の蕾をつまむようにして、塗った。
ずっと閉じられていた彼女の瞼が開き、いつもの彼女の超然とした目が僕の目を射抜いた。いつもならばここで彼女はすっとからだを引いてしまうので、僕は反射的に彼女の腰を掴もうとしたが、彼女は、からだを引こうとはしなかった。それどころかからだをさらに僕に押しつけ、手脚を僕のからだに強く絡みつけ、繋がったまま、僕のからだを雪の上に倒した。
彼女が僕の上になり、僕は彼女の顔を下から見上げていた。
彼女の瞳は変わらず氷のようだったが、そんな彼女の意思とは別にからだが僕から離れようとしないように見えた。彼女と僕はこれまでになく深く繋がり、僕はもう、背後の雪の冷たさなど何も感じなくなっていた。ただこの世界にいるのは僕と彼女だけであるかのように感じ、彼女と繋がっている部分から全身に、さざなみのように、とどまることなく押し寄せてくる、熱い魂の震えのような感覚にただもうこのまま身を任せ、彼女とひとつに溶け合ってしまいたいと思った。
彼女はゆっくり、ゆっくりと僕に沈み込んでくる。満月にほんの少し足りない月が針葉樹林の森の隙間に顔をのぞかせ、青白い雪の上で交わる僕と彼女を照らした。降り積もった青白い雪の上で蠢く、雪と同じように色味のない彼女のからだが、不意に姿を見せた、黒い空で冴え冴えと輝く月足らずの満月の光に背後から照らされている様子は、禍々しいほどに神々しく美しく、全身に広がり続けていたさざなみが大きな波に変わりはじめた。
あの男には中で果てるのを許しているのだから、僕だっていいはずだ。
僕の頭のなかには、うたた寝の夢で見た彼女と男の後ろ姿が渦巻いていた。
彼女が、かすれた声で何か言っている。意思に反して僕のからだを咥え込んだまま離さない自分のからだを呪っているように、かすれた声で何か言いながら、必死で僕の動きに抗おうとしている。
だが僕は、やめなかった。
このまま氷のように冷たく美しい彼女のからだの中の熱く湿って僕を包み込み締めつけて離さない場所に、飲み込まれてしまいたかった。
彼女を、僕だけのものにしたかった。
さざなみが大きな波に変わり、いまやその波は荒れ狂ううねりとなりーーー
僕は、彼女の中に、すべてを迸らせた。
その瞬間、僕は何かが、いや僕を取り巻く空気が、いつもとは違うことに気がついた。
目を開けると、目の前の空間が渦を巻いたように歪んでいる。
そういえば僕は、この光景をいつか見たことがある。
そうだ、あれはまだおとうとあの家に住んでいたときのことだ。
寒い冬の日の夜、おとうと並んで寝ていた僕が何かの気配に気づいて薄目を開けると、おとうの上に、ひとりの女がゆらりと立っていた。
女は音もなくおとうの布団に滑り込み、目を覚まして声を出そうとするおとうのくちびるをくちびるで塞いだ。
僕はおそろしくて寝返りを打つふりをして布団に潜り込んだ。けれど、女の冷たい目が布団の上からじっと僕を見ているような気がして、その冷たいおそろしさにからだの震えが止まらなかった。
どのくらいの時間が経ったのか、隣で行われている行為から漏れる湿った音とひそやかな溜め息がやんだ。布団の隙間からそっと隣を見ると、おとうと女のいる筈の暗い空間が、ねじれたように歪んで見えた。衣擦れの音がし、女が立ち上がる気配がしたので、僕は慌ててまた寝たふりをした。
女が、布団の上から僕を撫でた。布団を通して氷のような女の手の冷たさが伝わってきた。布団からそっと顔を出すと、おとうの姿も、女の姿も、消えていた。
その女とは彼女であったことに気づいたときには、目の前の空間のねじれた渦の中に巻き込まれていくように、僕は、彼女のからだと繋がった部分から、文字通り、彼女の中に取り込まれていった。目の前の渦の中に、白い花吹雪の中を彼女が男と手を繋ぎ消えていく夢の中の光景が甦り、その男と彼女が振り返った。その男は、僕だった。振り返った彼女の顔と、僕が最後に目にした、僕を見下ろす、瞼の上にうっすらとのせた青い粉が水気を含んでまるで青い涙を流しているように見える彼女の顔が重なり、その遠く向こうに、黒い空に浮かぶ月足らずの満月が見えた。
どこか真っ暗な場所に、僕はいた。
とくん、とくん、とくん、という音だけがきこえる。
まだ生きているのに間違って棺桶に入れられ地中に埋められてしまい、地下の棺桶の中で目を覚ましてしまったような気分だ。
僕がここにいて意識を持っていることを誰ひとりとして知らないのだ。
辺りは真っ暗で何も見えない。見えないというより、僕はおそらく目を開けてはいなかった。けれど目を開けるにはどうすればいいのかがわからない。からだを動かすにはどうすればいいのかもわからない。
絶望的な気分だった。
とくん、とくん、とくん、という音のさらに向こう側で、誰かがすすり泣いているような、音が聞こえた。
僕は、下から女性の顔を見上げている。彼女は僕を見ていない。窓の外を見て泣いているようだ。
僕は悲しくなった。僕がここにいるのに。なぜ彼女は僕を見ずに、窓の外を見て泣いているのだろう。
僕は彼女に呼びかけた。だが、声にならない。彼女が誰だかわからないのと、声をかけたくても、声にならないのだ。
彼女は、窓の外を見つめたまま「いつかまた」と呟いた。
僕は苛立って身じろぎした。すると彼女の大きな手が僕の小さな力ない肩をやさしくぽんぽんと叩いた。
僕は、母親らしき女性の腕に抱かれ、彼女の顔を下から見上げている、小さな赤ん坊だった。
彼女のことがこんなに愛おしいのに、彼女が誰なのかわからない。そして僕は、彼女の小さな赤ん坊でしかなかった。
†* *†* *†
甘く濃厚なアルコールの匂いが鼻孔をくすぐったかと思うと口の中に何か液体が流し込まれ、次いで柔らかな舌が差し込まれ、僕は我に返った。
彼女が、琥珀色の液体の入ったグラスを手に僕の目の前に立っている。
「夢を……見ていたのかな」
さっきまで彼女と交わっていた背中の青白い雪の感触も、彼女の熱い体内の感覚も、きんと冷えてしんと静かな夜の匂いも、彼女のくちびるからはみ出した紅と寒椿のくれないの色も、すべてがまだ、からだに残っているような気がした。
「夢ではないわ。あなたの細胞が、思い出しただけ。」
僕の心を読むように彼女が言った。
「男の欲望が、わたしには必要なの。
わたしがわたしであり続けるために。
男を自分のなかに取り込むたびに、わたしは一層輝きを増す。
けれどわたしは、あなたを取り込んでしまいたくはなかった。
あなたのことを、愛しく思っていたから。
あなたを失いたくなかったから。
あなたはわたしの言いつけを守れなかった、愛しくて、悪い子」
彼女は唄うようにそう言うと、グラスの中のジョセフィーヌを口に含み、ごくりと飲み込んだ。
「わたしはあなたがわたしの目の前から消えてしまったことを嘆き、あなたがわたしのなかで生まれ変わりもう一度人となることを願った。
途方もない時間が流れ、あなたはわたしから生まれ出た。
あなたは、あなたと交わったわたしから生まれたの。
あなたが小さな頃、一度会いに行ったのを憶えている?」
僕はどこかでそのことがわかっていた。あの幼い冬の日、スキー場の民宿で出会ったあの女性が、目の前の彼女であること、そしてその彼女のことを、僕はずっと昔から知っていたことを。
彼女は、僕と交わって孕んだ(孕んだ、という言い方は正確ではないが)僕を産み、僕の両親に託したのだ。
「いつかまた」という魔法を自分と僕にかけて。
彼女は、空になったグラスにまた、ジョセフィーヌを注いだ。
とくん、とくん、とくん、という音を愉しむように目を細め、いつも笑っているようなくちびるが、本当に微笑んでいた。
「心臓の音」
彼女はそう言って、僕の胸に耳を押し当ててからそこに自分の胸を押し当てた。
「ほら、血が共鳴している」
全身の細胞がざわざわとざわめきはじめたように感じた。
「細胞は永遠に憶えているから。もう、忘れて」
僕の耳にそう言葉を注ぎ込むと、彼女は、グラスに注いだジョセフィーヌを全部口に含み、一気に僕の口の中に流し込んだ。
むせかえった僕は、自分の口の周りはおろか彼女の口元から胸元にかけてをコニャックまみれにしてしまった。
すると彼女は、僕の顔を両手で挟むと、口の周りに零れたコニャックを舌先で舐めはじめた。コニャックの芳醇な甘い香り、彼女の氷のように冷たい手と熱い舌先、そして不思議に冷たい吐息に僕はまた目を閉じ、皮膚を通して僕のからだの芯を震わす感覚に沈み込んだ。やがて彼女の舌先が離れると、僕は、彼女が僕にそうしたように、彼女の冷たい顔を両手で挟み、彼女の口の周りから胸元に零れたコニャックを舐め尽くした。彼女の芯が甘く蕩け、僕は、そこにも琥珀色の液体を垂らし、さらに甘くして飲み干した。
寒さにからだが震えて目が覚めると、僕はリビングのソファにいた。彼女はもう、いなかった。
ジョセフィーヌの空のボトルがソファの横の床に転がり、テーブルの上のグラスの底のほうに、ほんの少し琥珀色が、残っていた。
ぶるっと全身が寒さに震え、僕は熱いシャワーを浴びてからベッドに潜り込んだ。窓に吹きつけてくる北風の音が、少しやさしくなったように思いながら、僕はもう一度眠りについた。
いつから彼女といるようになったのか記憶が定かではないのだが、気がついたら冬の夜、彼女が家に現れるようになっていた。毎晩ではない、週に一度か二度、それも何曜日とか何時とか決まっているわけではなく、不意に風が窓をこするような音がしたかと思うと、チャイムが鳴るのだ。この窓をこするような音というのは偶然なのかなんなのか僕にはわからないのだが、彼女が現れる前、チャイムが鳴る前にたいてい聞こえてくる不思議な音だ。たとえていうなら猫が全身の毛を逆立てながら磨りガラスにからだを擦り寄せているような音。そしてチャイムが鳴る。彼女が鳴らすチャイムの音は僕の心臓をいつも直に突き刺し、全身に響いていく。そして僕はドアを開ける。彼女がそこに立っている。ただ、立っている。マンションの共同廊下を見ても、もちろん彼女でなくても今歩いてきた人の残像がそこに残っているわけなどないのは百も承知なのだが、なんとなく人の気配がない。人の気配がないというよりも、不思議と、場が冷たい感じがする。一階のエントランスを通ってエレベーターに乗ってエレベーターを下りて数軒分の廊下を歩いて僕の部屋のドアの前に現れるというよりは、不意に僕の部屋のドアの前に現れて、チャイムを押している、そんな感じがいつもするのだ。
僕がドアを開けると、彼女はいつもかろやかに言う。「今晩は。」その声の調子がなぜかいつも懐かしくて、僕もこう返す。「よく来たね。」
彼女は誰なのだろう。
思い出せそうな気もするのだけれど、その記憶の手がかりは、手を伸ばすと青白い靄の向こうに隠れてしまう。
外はまた今夜も、雪混じりの風が強く吹きはじめた。
Fin.