14年間

532

急だけど、子どもを亡くしたときの話をしようと思う。

あの時のことをちゃんと嘆いていないのではないか、だからその嘆きを誘発する別の出来事が起きている(それを起こしてしまっている)のではないか、と思ったからだ。

あの時私は、まだ明るい時間にお風呂に入ることにハマっていて、その日も明るいうち(多分夕方5時くらいとかだろうか)にお風呂に入り、バスタオルだけを羽織ってベランダの窓辺に立ってまだ明るい夕方の陽を浴びていた。

2008年5月下旬。

全身にあたたかさを感じながら、右の太腿の内側を、ツーーーーーっと、何かが伝っていくのを感じた。

お風呂のお湯が体内に入って、それが今頃流れ出てきたのだろう、と私は思った。

妊婦はおりものが多いので下着が濡れてしまいがちで、おりものシートをつけていたのだけど、それがその後からいつもにも増して濡れていて、おりものが増えたなーと思っていた。

それからなんとなく熱っぽくて体が怠くて、今ではもう記憶が定かでないのだけれど、確か病院に行ったのはその翌日かあるいは翌々日くらいだったのではないかと思う。

夫はその日から出張の予定で少し遅めに出勤し、弟と義妹と姪が家にチラッと寄る予定だったのだけど、朝からずっと怠くて、弟家族に事情を話してかかりつけの産婦人科まで車で乗せて行ってもらった。

産婦人科は家から歩いて5分くらいの場所にあったけれど、その距離を歩くのすらも怠い感じで……産婦人科の近くの有料駐車場に弟が車を止め、クリニックに入った。

このクリニックにはその前の妊娠の時2回お世話になっていて、その2回はそれぞれ6週、13週で流産してしまったので、今回安定期と言われる週に入ったことを先生も看護師さんも皆喜んでくれていて、数日前の検診でも「ようやく一安心だね」と診察室で皆で笑ったばかりだった。

問診で熱っぽくて怠いことを先生に伝えたものの、「じゃあ、とりあえずは内診してみようかね」くらいな感じだったのはそんな背景があったからだ。

ズボンと下着を取り、いつもの診察台に座り、脚を乗せると自動的に脚が開き、先生がやってきた。

私の脚の間を覗き込んだ先生が急に大声で叫んだ。

「いきまないで! いきんじゃだめ!!!」

何のことかわからず、私はきっときょとんとした顔をしていたに違いない。

破水してる。

胎胞(赤ちゃんを包んでいる膜)が出そうになっている。

ここではなく、総合病院に行かなければ。

救急車呼んで。

たぶん、先生と看護師さんは脚を開いたままの私の前で、こんなやりとりをしていたんじゃないかと思う。

よくわからないまま、そのうち救急車のサイレンが聞こえてきた。

看護師さんが私の肩を優しく撫でながら、「M病院(出産を予定していた病院。松本市では、基本的に検診はかかりつけのクリニックで、出産は設備の整った総合病院で、というルールがあった)にも連絡取れたから、大丈夫だからね」と言ってくれていた。

救急隊員がクリニックに入ってきて、私は担架に載せられ、エレベーターは担架を運ぶには狭すぎたために階段を使って外に出た。

外に出たら、出張予定だった夫がスーツのままクリニックに到着したところだった。(と、思う。私が連絡したのかどうかも覚えていない。でも多分連絡したのだろう。)

救急車に乗せられる直前に振り向くと、先生と看護師さんが心配そうに見送る姿が見えた。

救急車の中では何か一通りマニュアルに沿ったことを尋ねられたり、血圧を測られたりしたように記憶している。救急車って結構揺れるんだな、というのが最初の印象で、

救急車、赤信号通ります

そんな声が聞こえてきて、ああ、多分今私の乗っている救急車はあの交差点を横切っているんだな、普段たまに遭遇するあのシーンのまさにその車の中に今私はいるんだな、と思うと何だか夢の中にいるような、現実ではないような、何か人ごとのような、笑い出してしまいそうな不思議な感覚がした。

M病院に着き、私はストレッチャーに移されたのだが、この時、救急隊員の人か、病院の人かが、手を滑らせて少し持ち上げた私を落としてしまった。落としたといってもおそらく数センチだろうけど、私は腰を打ってしまい、このことは、あとあとまで私の中で「あの時腰を打ったのがいけなかったのかもしれない」と尾を引くことになる。

救急の入り口では看護師さんや助産師さんが何人も私の到着を待ち構えていた。

私のストレッチャーが到着すると、一人の助産師さんが「びっくりしましたね、もう大丈夫ですよ!」と笑顔を向けてくれたのをよく覚えている。そこからまた、病院の車椅子だったか何か座ったまま移動できるものに移され、体を下ろされた瞬間に、ドバッと羊水が溢れ出てしまった。

一瞬にして周りを取り囲む人たちの顔が険しくなって、私は人形のようにそこに座ったままだった。

連れて行かれた病室は、一般の妊婦さんと一緒じゃない方がいいだろうから、という理由で、病棟の端っこの個室。そこで受けた説明は、「破水してしまっているので、とにかくお薬でできる限り長く陣痛を抑える。最低でもあと2日持たせられれば万が一生まれてしまっても子ども病院に搬送できるけれど、その前に生まれてしまうと法律的には出産でなく“流産”になるため何の医療処置もできない」とのことだった。

その日は、もうかなりうろ覚えだけど21週と5日目だったように思う。

22週目以降になると「早産」の扱いになり、それ以前は「流産」なのだ。

「ただ、22週で生まれた場合、子ども病院に搬送することはできますが、障害が残る可能性は非常に高いです。ほぼ何か障害が出ると思ってください」

それを理解した上で、張り止めの点滴を使って治療を開始するか、あるいは、現時点で前期破水してしまっているのでこのままあかちゃんを出してしまうか、ただし、生まれても医療行為はできないーーーつまり、中絶と同じ扱いーーーそのどちらかを選べと究極の選択を突きつけられた。

その答えは家に帰って考えてきてくださいね〜というわけにはいかず、一刻を争う状態である以上、その場で決めなければならない。

重い障害のある子を育てるとなると、自分の夢ややりたかったことができなくなるであろうこと、生活も人生も一変してしまうであろうこと、その大変さ、精神的ストレス、が一瞬頭をよぎった。
それでも、今おなかの中にいるあかちゃん、この間から胎動も感じるようになり、ぽんと叩くと内側からぽんと答えてくれるその子を今見殺しにすることはできない。だって、ここに今、確かに生きているんだもの。

私は入院して

ベッドの上で絶対安静で、子宮の張り止めの点滴をしながら、その頃妊婦さんにいいということで親戚のおばさんからいただいたサプリメントを溶かした水をせっせと飲んでいたこと、両親がやって来たこと、ヒーラーの友人にヒーリングを頼んだけれど「これから講座があるから」と断られhelplessで絶望的な気分になったこと、は思い出せる。でもそれ以外のことはあまり思い出せない。多分、これから何ヶ月ベッドに絶対安静になるんだろうか?とかそういうことを考えていたかもしれない。

次にぼんやり覚えているのは、陣痛が来てしまった時のことな気がする。陣痛が始まらないように点滴をしているのに、陣痛が来てしまったのだ。あと2日、もたせなければいけないのに。

私は、お腹の中にいるあかちゃんにも、神様にも、陣痛が治まりますようにと必死で祈った。でも、張り止めの点滴の量をマックスにしても陣痛の波はおさまらなかった。

助けてよ、誰か助けてよ

心の中でずっとそう叫んでいたような気がする。

あと2日。あと2日もたせれば、なんとかなる。

子ども病院に連れて行ってもらえる。

でも、私の体は無情にも陣痛を止めることはなかった。

その日の当直の産婦人科医の先生は若い男性で、多分、常勤ではない先生だったと記憶している。この病院には検診で数回来ただけだったからそんなによく知っていたわけではないけれど、先生がそう名乗ったのか、私がそう感じたのか、どっちか。

その男の先生が言った。「張り止めの点滴をこれだけ入れてもダメということは、もうお産を止めることはできません。これからお産に入りますが、いいですか?」

とても事務的な調子でその先生は言った。

事務的な調子、というのは私が感じたことで、その先生が本当はどうだったのかはわからない。他の先生に関してもこの後共通してずっと感じてたのは、不用意に感情移入しないようにしているのだな、ということ。

いいですかも何も、もう、張り止めの薬をマックスに入れても止められないということは、生まれてしまうのだ。生まれても何もできないのに。

不安げな両親の顔。

私を乗せたストレッチャーは深夜の病院の廊下を静かに分娩室へと向かった。

一人目の子も破水から帝王切開で生まれたので、私は陣痛というものをほとんど体験していなかった。

だから、お腹の痛みをどうしていいかわからなかった。

普通の妊婦さんみたいに助産師さんに手を握って一緒にいてほしい。

そう思って多分私はストレッチャーを押していた助産師さんに手を伸ばした。彼女は私の手を握ってくれた。

分娩台の上のことはあまりもう覚えていないけど、何かかニュルッと出たような感覚があり、静かな、静かな室内で、終わったんだな、と思った。

私は涙を流すこともなく、分娩台の上でぼんやりしていた。

そして、神様なんていないんだな、と思った。

しばらく、そのままで放っておかれたように思う。(なんで私、ここに今、一人でいるのかなって思ったように記憶しているから)

これは後で聞いた話から想像した捏造記憶なのか実際に自分の目で見た記憶なのかわからないけれど、隣室の台の上に、医療用のステンレスのトレイが見えた。でも本当にこれが自分の実際の記憶なのかどうかは定かじゃない。

病室に戻ってから、看護師さんか助産師さんが、

「赤ちゃんは冷蔵庫に入れてありますから、明日になって会いたくなったらいつでも声をかけてください」

と言った。

冷蔵庫?

と、思った。

大人の冷静な自分は、「そりゃあ腐っちゃったらいけないもんね」と言っているが、そうでない部分の私は泣き散らして喚き散らしたかった。

冷蔵庫って何なの。

私の子どもだよ。

人間なんだよ。

でも、何か言う元気は私に残っていなかった。

次の日からの記憶は飛び飛びで、ベッドに腰掛けている自分を外側から眺めているような記憶しかない。

ただ、翌日、赤ちゃんに会わせてください ってお願いした記憶はある。

多分、言われた看護師さんも、たとえ仕事であっても気まずかっただろうなと思う。

運ばれてきた赤ちゃんは、小さな段ボール箱の中に入れられていた。

冷蔵庫に入っているので、もちろん箱はとても冷たい。

当たり前だが人間の形をしていて、しっかりと目を閉じていて、小さな手も、足も、しっかりと成長していた。

最初に見た時、天使だ、と思った。

天使って、きっとこの子のように月足らずで生まれてきた子がモデルなんだなあと、そんなことを思った。

透き通るように薄い薄い肌に、私は触れることがほとんどできなかった。

抱き上げたりしたら肌に傷をつけてしまいそうで。

畏敬の念に近い感覚で、そうっと、頬や頭に触れるくらいしかできなかった。

それから数日は、何をして過ごしていたのか覚えていない。

確か私の両親も、義両親も、小さな段ボールに入った赤ちゃんと対面したように思う。

義母が、「ちゃんと人間の形をしているんだねえ」と言ったのを覚えている。

私の場合は後期流産でも、「死産」といわれるもので、埋葬許可を取って火葬する必要がある。

外出許可を取って、久しぶりに外の世界に出た。

火葬場に行く前に、家に連れて行ってあげたかった。

あまりよく覚えていないけれど、多分看護師さんからアドバイスがあったんだと思う。夫に頼んでお花を買ってきてもらった。
お花屋さんで、「生まれてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんのためのお花を」と伝えて作ってもらった、かすみ草と、マトリカリアという名前の小さな白いお花。
そのお花を、小さな体の周りに飾った。

赤ちゃんの入った段ボール箱を抱いて車に乗り込み、自宅に向かった。

自宅マンションの駐車場から部屋へと向かう時、顔見知りのマンションの住人に会ったが、青白い顔で段ボールを抱えた私の姿になんとなく異変を察知したのか、軽く会釈する程度で済ませてくれた。

自宅の中を、段ボールに入った赤ちゃんを抱いて私は案内した。

ここがキッチンだよ。ここがお姉ちゃんのお部屋だよ。と。

私のお腹の中で体験していた場所を、外の世界に出てきてからも見せてあげたかったから。

その間、義理の両親も室内で待っていてくれた。

家を出る直前、ふと思いついて、手作りのバスソルトを赤ちゃんの段ボールの中にパラパラと振り入れた。

これは、かかっていた産婦人科クリニックで開催されたマタニティアロマのクラスで作ったバスソルト。

私が私自身の心を落ち着かせる香りを作ったものだし、お塩だし、ちょうどいいように思ったから。

確かそれと一緒に、母が「ちょっと早いプレゼント」と言ってくれたどこかの旅行のお土産の木工細工のでんでん太鼓のようなおもちゃを入れてあげたように思う。

それから、写真を撮った。

今後見返すことはないだろうと思いながら、何枚も撮った。

確かにその後今日まで見返したことはない。

ただ私が死ぬ時には私の大事なものの一つとして一緒に持っていきたいなと、それは決めている。

火葬場でのこともあまり覚えていない。

黒い服を着た男性が厳かな感じに深々と頭を下げている感じ、その人の白い手袋、くらいしか覚えていない。

小さなトレイに入って出てきた赤ちゃんの小さな骨は、白くて、いつか南の島で拾った白い珊瑚みたいで

それを長細いお箸で小さな小さな骨壺に入れるのだけど、拾えるほどの大きさのものをあらかた拾ったら、その男性が残りをトレイから直接骨壺に入れた。

でもその後にもトレイには若干の灰が残っていて、思わず私は、指でその灰を一つに集め、指につけてなめた。

もしもまだ赤ちゃんのかけらがここに残っていたなら、この後流水で洗われ排水に流されたり拭かれたりするのはあまりにも悲しいと思ったから。

その後、病院に戻ると、あの日病院の入り口で私を待ってくれていた助産師さんが今日の私の担当で、何か言ってくれたように思うが、そのシーンだけは覚えているけど何を言っていたのかは覚えていない。私の体調を気遣う言葉とともに、外出して最後を一緒にいられてよかったですね、みたいなことを言ってくれたのかもしれない。

多分翌日に幼なじみがお見舞いに来てくれた。

私の目線は自然とベッドの隣に置いた小さな骨壺に向かい、私の目線を追って動いた彼女の目が白い骨壺の上で止まり、彼女は黙って泣いた。

一週間くらい入院していただろうか。

この急な入院の間に出品していたオークションが落札されていたので、なんとか携帯を使って落札者さんと連絡を取ったり(まだスマートフォンではなかった時代)、それから、同じような体験をした人のことをネットで探しまくり、体験談を読んだ。後期流産や死産で子どもを喪くした人の本を注文した。

退院前の診察で、私は、なぜこうなったのかを尋ねた。答えは予想通り、あの夜の先生と同じように、事務的な調子での「原因はわかりません」だった。大人の私は、いちいち感情移入していられないし総合病院で忙しいのだから仕方ないよね、と理解できる。でもそれ以外の私の部分は、今、その冷たい事務的な調子はこの状態で言われると本当に辛い、と思っていた。冗談めかして書くとあれは何の前触れもなく子どもを喪くした母親にとって、二次災害だ。(批判ではなく、正直な感情)

退院時にナースステーションに挨拶したけれど、笑顔と祝福で見送られる他の多くの人と違い、ぺこりと頭を下げられただけだった。まあ、なんと言っていいかわからないよね。逆の立場だったら私だってそうだ。

乗り込もうと思ったエレベーターから出てきた上品なおばさまが、生まれたばかりの孫に会いに来たらしく嬉々として産科病棟に向かって行った。私は、下を向いてエレベーターに乗り込んだ。

帰り道、車の中で、『同じ夜』という曲が流れた。

吹き荒れる風に涙することも 幸せな君を只願うことも同じ
空は明日を始めてしまう 例え君が此処に居なくても
泣き喚く海に立ち止まることも 触れられない君を只想うことも同じ
空は明日を始めてしまう 例え私が息を止めても

子どもの頃、いつもそんなことを思っていた。
私が死んでも街路樹はここにあり続け、風はその葉を揺らし、私がいなくても、明日になれば太陽が昇る。
そう思うと震えるほどに怖かった。
私って何なんだろう、私のこの存在って何の意味があるんだろうって思ってしまって。

退院後、私がとにかくまずしたことは、私の妊娠を知っている人に、早く生まれすぎて喪くしてしまった、と連絡をすることだった。なぜなら、そうとは知らずに連絡してきてくれた人に「実は死産で」と伝えたら、相手は気まずいだろうしなんと声をかけていいか困ってしまうだろうと思ったから。だったら先に伝えておこうというのがその時の私の出した結論だった。

たくさんの人が返事をくれた。でも、何を言われても何も心に響かない。今振り返ると、私だって同じ立場なら、「大変だったね」「体を休めてね」としか、言えないだろう。でも、そう書いてきてもらっても、何も響かなかった。

同じように以前後期流産してしまった友人に思い切って電話をしたら、そのしばらく後、彼女はアドレスを変えて連絡が取れなくなってしまった。昔の話を蒸し返したのが彼女の心を傷つけてしまったのかもしれない。

18トリソミーで子どもを亡くした友人に電話をした。少しずつ、少しずつ、必ず元気にはなってゆくけれど、ずいぶん後に、何年も経ってからいきなり思い出して涙が止まらなくなることがあると思うよ、と言われた。

たまたま外で会った知人に、「そんなこと(早く生まれてしまったけど週数が満たないため何もできない状態)あるの!?」と言われて何も言えなくなった。

弟に、「もう立ち直った?」と言われて笑って返したが、内心、退院してすぐに突然子どもを喪くした出来事から立ち直れるわけがないだろう、と思った。

入院中、「今から講座があるから」とヒーリングをしてくれなかった友人を電話で責めた。
止められなかった。「あの時ヒーリングをしてくれていたらもしかしたら死ななくて済んだかもしれない」と電話口で大声で泣いて責めた。彼女のせいではないことなんて100も承知でも、何かのせいにせずにはいられなかった。彼女はただ、黙って聞いていた。

大学時代の親友から、後になって「どんな慰めを言っていいかもわからないからそっとしておいたけど、今はそれでよかったのかなと思う」という意味のことを言われ、私はただ一緒にいて欲しかったな、と思った。

退院間際に病院から注文した、同じような体験をした人の体験談を集めた本を読むと少しだけ安心した。こんな思いをしているのは私だけではないと思えた。

退院後はしばらく毎日母が通って食事を作ったり話し相手になったりしてくれた。自分が古いお雛様を処分してしまったことで罰が当たったのではないかと思ってしまうことがある、と話してくれた。(余談だが私の魔術的思考はこの通り、母譲りなのだ。苦笑)

ミルクの香りのするお線香を買った。

香炉の代わりに、白いキャンドルホルダーを買った。

毎日、お骨にお線香をあげて、幼くしてこの世を去った子どもに捧げる短い言葉を唱えることだけのために生きていた。それしかやれることがなかった。

ネット上で、お空に還った子どもたちに毎朝読経をし、寄せられたメッセージをお焚き上げしてくれるというお寺を見つけ、時々そこにメッセージを送った。

骨壺に、白いお花を欠かさず飾った。お花を飾るという習慣はない私が、たまに買い物に行くと必ずお花屋さんに寄って白いお花、特に送るときに入れてあげたマトリカリアがあれば必ず買った。

なぜ、こうなってしまったのかを考えた。

なぜ、生まれた直後、会わせてくださいと言わなかったのかを死ぬほど後悔した。

なぜ、最後に抱っこしなかったのかをずっと自問自答した。

生まれた後の赤ちゃんの様子を知りたくて、出産した病院に電話をした。

その夜、助産師としてその場にいてくれた助産師さんに話を聞けることになった。

退院して1ヶ月後くらいのことだったと思う。

病院の明るいデイルームで、助産師さんと会った。この人が、私の赤ちゃんの最期を見た人なんだなあと、思った。

こんなことを聞いてくる人はもしかしたらいないのかもしれない。助産師さんもきついだろうなあ、と思った。眉間にしわが寄っていた。

生まれて、医療用の銀色のトレイに載せて、隣の部屋でしばらく様子を見ていた。

10分くらいして、息を引き取った。

と、いう意味のことを話してくれた。

私は、「助産師さんが、その瞬間、そばにいて、見ていてくれていたんですか」と尋ねた。

助産師さんが、「私が最期までそばにいました」と言ってくれた。

よかった、と思った。

せっかくこの世に生まれてきて、ステンレスのトレイの上で、ひとりぼっちで息を引き取るなんて悲しすぎるけど、せめて誰かの優しい目で見守られながらだったなら、よかった。

あの子のことで何か覚えていることはありますか、と尋ねた。

助産師さんは、少し考えてから、「そういえば、指がとても長くて綺麗な子だな、と思いました」と言ってくれた。こんなに小さいのに、指がとても綺麗だったと。

そこは私に似ていたんだなと思って、ちょっと嬉しく思った。

助産師さんにお礼を言って私は病院を後にした。

それからずいぶん経って、私はこの病院の病棟に、死産の直後に購入した本を寄付したいなと思って連絡をしてみた。

私がその当事者になった時、あまりにも情報がなくて自分に何が起こったのかわからなかったのと、同じ経験をした人の話が知りたいと思ったけれどなんの情報もなくて、助産師さんも看護師さんもそのことには触れたくなさそうだったから。

でも返事はなかった。残念だと思ったけれど、幸せに出産する人には関係ないし、切迫流産や早産で入院している人たちにとってはこれは縁起でもない本かもしれないから、仕方ないと言えば仕方ないけど、月に何人かはいるという私のような後期流産でわけもわからずいきなり子どもを喪くしてしまう人のためになればいいなと思ったので残念だった。(当時はまだスマホの時代ではなかったから、病院で情報を調べるといってもたかが知れていた)

1ヶ月ほど経った頃だったか、夫の実家でお坊さんを呼んでお経をあげてもらうことになった。
正直、私は、お骨をお墓の中に入れてしまいたくなかった。
暗くて、もう2度と出てくることのできない石の扉の向こうにこんな小さな骨を入れてしまうなんて、してはいけないことのような気がした。

お坊さんは、こんな早くに生まれた赤ちゃんにお経をあげたり位牌を作るなんてこれまでなかったというような意味のことを言い、私は咄嗟に、義母が死んだ赤ちゃんを見た時に言った「ちゃんと人間の形をしてるんだね」と言った言葉をそのままお坊さんに伝えた。なんと答えていいかわからず咄嗟に口をついて出てきたのだけど、後で、私はなんてひどい母親だろう、と落ち込んだ。
ちゃんと人間の形をしていたなんて、そんな言い草、ないよね。(これは義母を責めているのでは全くなく、心ではそんなこと思っていないのにそう言ってしまった自分自身への怒り)

義父が法事のお料理のようなものを注文してくれてあり、両家の親と私たちがそれをいただいたのだけど、「ちゃんと食べて、しばらく体を休めて、また体を作って…」みたいな挨拶をされて、その時は、こんな大袈裟なことをされたくない、と思った。

お墓の石の扉を開けて、古い骨壺が並ぶ中に小さな小さな骨壺を入れて、また扉をズズズ、と閉めていくときに、扉の向こうがだんだん影になり日の光が当たらなくなっていく様子をなんだか茫然と見ていた自分を思い出す。

その後義父は小さなお地蔵さんをお墓に建ててくれた。私がこの子の前にも初期で流産し、その前にも妊娠反応は出るもののすぐに流産してしまう化学流産というのもしていたから、だからきっとお坊さんを呼んで供養してくれたり、お地蔵さんを建ててくれたりしたのだと思う。

夫が休みの日には、きれいなものを見にあちこち連れて行ってもらった。
安曇野のアートヒルズには何度行ったかわからない。あとは山梨の方の石のミュージアムや、湖。
きれいなものを見ていると、少し気が晴れた。
でも、ある時、どこかに行く車の中で私がまた気分が落ち込んで泣いてしまったのだが、それを見て、もういい加減にしてほしい、と言われた。その言葉で私はさらに感情が高ぶり、悲鳴のような声をあげて泣いた。
これも夫を責めているわけではなく、彼は、とても頑張って私を支えようとしてくれていた。ずいぶん時間が経った後、あの頃、自分まで落ち込むと私がそのまま死んでしまいそうな気がして泣くことができなかった、と言っていたから、私が死なないようにと必死で心を配ってくれていたのだと思う。

3ヶ月ほど経って、娘が仲良しのお友達のお家に遊びに行くときに、お母さんたちもどうぞということでご招待いただいた。

あまり気が進まなかったけれど、気晴らしに行くことにした。

退院後からそのくらいまで、人に会うのが怖くて、私は一人で外を出歩くことができなくなってしまっていたから。

誰かに会って腫れものに触るような扱いをされるのもきつかったし、かといって知らんふりをされるのもきつくて、どうしようもなかった。

ごめんなさい

って、なぜかいつも、すべてに対して思っていた。

娘のお友達の家でも、他のお母さんとたわいない世間話をして時間を過ごしていたけど、そのうちの一人から突然、「えらかったね(方言で、えらかった=大変だったという意味)。実は私も、数年前に同じくらいで子どもを喪くしたから、よくわかる」と言われ、ああ、同じ気持ちを経験した人がいたんだ、と、なんとなく安堵の気持ちが湧いてきた。

彼女もまたなぜ自分がそうなってしまったのかわからず、混乱して、家を出て、気づいたらどこか遠くへ行くバスに乗っていたのだそうだ。死ぬ気だったのかもしれないけど、とにかく自分のことを誰も知らないところへ行きたかった、と彼女は言った。

するともう一人のお母さんが、「私の旦那の友達なんて……」と話し出した。彼女の旦那さんの友人の方は、出産の時に奥さんとお子さんが亡くなってしまったのだそうだ。彼女はそう言って泣いていた。
きっと、「あなたも大変だろうけど、世の中にはもっと大変な人もいるんだよ」ということを伝えたかったのだろうが(ある種謎のマウント)、それであれば逆効果だ。
悲しみに上も下もない。
でもその時同時に思ったのは、「生まれて戸籍に残る子はまだいいよね。この子は戸籍にすら存在が残らない」「初期の流産の人にこの気持ちはわからない」などと私もどこかで悲しみに上下をつけていたことだ。いやらしいけど、心の中でそれをしていたのは認めよう。

当時私は翻訳者のエージェントに登録していた。日本での翻訳出版が決まった本の一部を公開し、オーディションを行なって翻訳者を決めるというシステムで、それまでにも私はこのエージェントを通して何度か翻訳の仕事をしていたのだけど、悲しみと喪失感と孤独感と社会との隔絶感の絶頂にいたその頃、ある本のオーディションの案内メールが届いた。

ローリング・ストーンズのキースの伝記とミックの伝記。

取るものもとりあえず、私はオーディションに出された抜粋部分の文章の翻訳を始めた。

確かオーディションの締切までの期間が通常より短くて、とにかく夢中で訳した。キースとミックが初めて出会ったシーンを読んだとき灰色のロンドンの空と時代の空気感を感じて、その感じたままを日本語に落とせたような気がして、もしも翻訳者に選ばれなかったとしてもここをこう訳せただけで満足だと思ったのを覚えている。

そして私はキース・リチャーズの伝記の翻訳者に選ばれた。

は、いいが、物凄いタイトなスケジュールで、今思い返してもよくやったなあと思う。

3ヶ月ほどの間、本当に翻訳と必要最低限の日常のことしかしなかった。

ただ、翻訳しながらも常に頭の半分は悲しみに覆われていて、1-2時間に一度はそこから一気に悲しみが全身を覆う。体の内側から慟哭の声を絞り出すように涙が溢れた。

そうなるともうどうしようもなくなってしまうので、とにかく泣き、少し波が落ち着いたら翻訳を再開する、を繰り返していた。

そのうち、いいことを思いついた。

1時間に一回タイマーで10分ほど休憩を入れ、その間は腹筋をする、というもの。笑

腹筋をしている間は、いくら泣いてもいいというルールを作った。

ただ泣いているだけじゃなくて、腹筋すればお腹は引っ込むしいいこともあるじゃん、という謎の思考回路なのだけど、これは結構良かった。泣きながら腹筋をしているという今思い返すと笑ってしまう構図だけど、その時の私にとってはこの腹筋タイムが唯一自分に泣くことを許した時間だったので、むしろ腹筋することが楽しみにさえなった。

3ヶ月後、納品が完了した時、何かトンネルを一つ抜けたような、そんな感じがした。

世界から孤立してしまったような、helplessで孤独で惨めでただ日々を生きることに精一杯だったところを抜け出すことができたのは、この本を訳すという使命ができたから。

もっと若い頃私の肩や胸元にタトゥーを入れてくれた彫り師さんに、亡くなった赤ちゃんにつけた名前と、彼女の段ボールの棺に入れてあげた白いお花のタトゥーを入れてもらおうかと考え、デザインをして依頼の連絡をしたが、彼女は人気のアーティストさんだったのですぐの予約が取れず、結局実現しなかった。
今思うと、それで良かったと思う。

半年ほど経った頃、私は、ヒーラーの友人に久しぶりに連絡した。
退院直後、「あなたがヒーリングしてくれていたらあの子は助かったかもしれない」と彼女を罵ったことを謝りたかったのだ。
もう許してもらえないかもしれない、と思ったけど、謝りたかった。
あの時のこと本当にごめんなさい
と伝えると、彼女は堰を切ったように泣き出した。
こんなにも悲しませてしまったんだな、と思った。
うん、いいよ
と、彼女は言ってくれた。

1日が終わりまた朝が始まり、お線香をあげるためだけに生きていたのに、お線香をあげる頻度が少しずつ減っていった。
亡くなった赤ちゃんへのメッセージを毎朝お焚き上げしてくれるお寺さんのホームページを見ることが徐々に減っていった。

私は少しずつ、少しずつ、笑えるようになり、外に出られるようになっていった。

1年後、犬を飼い始めた。

子犬のお世話としつけはとても手がかかり、私は育犬ノイローゼ(笑)になりかけた。
その頃、東京でOLをしていた頃の同僚が結婚して奥さんに赤ちゃんが生まれ、毎日大変だというメールを貰った。私はなんだかいてもたってもいられなくなり、子犬を家に置いて、車で出かけた。
車の中で、『瞳を閉じて』という曲が流れた。

いつかは君のことなにも感じなくなるのかな
今の痛み抱いて眠る方がまだいいかな

本当に、そうなっていた。
喪失感と慟哭と後悔と惨めさで気が狂いそうだったのが、少しずつ亡くなった子のことを考える時間が減り、お線香をあげることも少なくなっていた。
生きていくために、人間には本当に忘却の本能がある。
1日のほとんどの時間、あの子のことを私は忘れている。
ふとそれに気づいたとき、私はなんと酷い母親だろうかと、自分で自分を責めた。
同僚のメールを思い出し、
なんで私は赤ちゃんの世話ではなく、子犬の世話をしているんだろう、と思うととてつもない絶望感が体の奥底から上がってきて全身を包み、嗚咽が止まらなくなり、私は、郊外のショッピングモールの広い駐車場の端に車を止めて気持ちが落ち着くまで泣き続けた。

2022年。

その子犬が歳を取り、加齢による神経症状で歩くこと立ち上がることができなくなってしまった。

彼を抱き上げると、ぐにゃぐにゃとして、まるで新生児を抱っこしているみたいだ、と思った。

中身も脳もしっかりしているのだが、手足がきかないため、お水を飲むのも、ご飯を食べるのも、トイレをするのも人間の手が必要で、これ赤ちゃんのお世話と同じだなあ…と思った。

できていたことができなくなり、ここ1年ほどでみるみるうちに老犬になってしまった彼を見て、初めて死を意識した。人間より早く歳を取るのだから、私より早く逝ってしまうのは当たり前のことなのだけど、それが怖くて、あらゆる手立てを講じようとしている自分に気づき、ああ、私は、もう失いたくないんだなあと思った。目の前の老犬に、喪くした赤ちゃんを重ねている自分に気づいた。

でも、決められた命の長さをどうこうすることは誰にもできない。それを私は受け入れなければならなかった。

数ヶ月もがいただろうか。

その間、産婦人科を舞台にした漫画を2本、夢中で読んだ。ずっと前に読んで、同じ思いをした人がいることに少し安堵し、みんないろんな想いや体験を抱えて生きているんだなあと思ったまま忘れていた漫画を、最初から、そしてその後続いているその続きを読み耽った。

週に一度受けているヒーリングセッションでは、何度も何度も、繰り返しこのテーマを取り上げた。

少しずつ私の人生におけるこれらの体験の理解が私の中に入ってきた。

命には限りがありそれを周りがどうこうすることは決してできず、できることは、愛を伝えること、あなたがここに、私のそばにいてくれて本当に私は幸せであることをただ伝え続けることだとようやく理解した。

生きていたら14歳なんだなあ、とふと考えてびっくりした。

あの子が生きていたら今の私はなかっただろうし、それはそれでまた今とは別の人生を楽しんでいただろう。

でもきっと私は今の人生を送りたかったんだと思う。

私は今、幸せだから。

私からあの子が生まれた日であり、あの子の誕生日であり、あの子の命日である2008年5月27日。

あの子の姉である娘が生まれた時、(彼女もまた、予定帝王切開の数日前に破水して緊急帝王切開で生まれた)担当医の先生が言った言葉を思い出す。

「こちらの都合で予定した日ではなく、赤ちゃんが自分で生まれたいって決めたタイミングで生まれてきてくれたので、すごく良かったです」。

ほんの10分かそこらしかこの地球で生きてはいなかったけど、きっとそれが、あの子が自分で決めたタイミングだったのだろう。それを私はもちろん、ヒーラーの友人だって、お医者さんだって、助産師さん看護師さんだって、誰もどうこうすることはできない。

14年後のこの日、ハートの内側で、私は赤ちゃんを抱っこしていた。
あたたかくて優しくて白っぽい、空の雲の上のような場所で
ゆりかごのような歌に抱かれて。
白く透き通る、小さな小さな天使のような子どもを
やっと、そっと抱き上げることができた。
なんだ、意外と抱っこできるんじゃん、と、思った。
あたたかくて、幸せな気分だった。

Fin.






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